自己中心的であること、他者中心的であること
ポジティブ万歳?
世の中の言説は、ポジティブ万歳。ポジティブになればすべてが良くなると色んなメディアで語られています。
ネガティブになろうぜ!! みたいなキャンペーンは少ないですね。でも、サバンナ思考って考え方はネガティブ思考の重要性を解いていてお勧めです。
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本来はどちらも大事だと思います。でも、ネガティブな人が情報を探すからポジティブ大事って情報が氾濫するんですよね。
本当にポジティブであればいいのでしょうか?
逆転現象。求められるから変わる。
ネガティブな人は最初からネガティブだったのでしょうか?
SNSで有名になっていく人の人格が変わっていくように見えるのも相互作用の結果です。結局、多数の欲求に答える形で変遷していくのでバランスがおかしくなるように見えるのですよね。その変化に気がつかず熱狂的なファンと本人とで大きい閉じたループが出来るので、その人が喋っているというより、求められた事を喋っているのに自分の考えを喋っているような感覚になっているから人格が変わったようにみえるのです。SNS時代にその流れは加速している気がします。
みてて面白いのは尖っている人は丸くなるようにみえるし、丸かった人は徐々に尖っていくのが面白いですよね。でも、なかには自分を見失わない人もいてそういう人をみると本当に格好いいなと思います。
そうなるとミケランジェロがいったように、「どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。」「私は大理石の中に天使を見た。そして天使を自由にするために彫ったのだ。」
みたいな人の行動が結果を作るのでなくて結果が人の行動をつくっているというような逆転現象がおきますね。
これは我々医者もあります。患者に求められることが情報の質にもろに現れます。火消しとしての感覚から火事になりにくい家=いい家になりがちな思考になります。
私の反省点でもありますが、治療で偉そうにしてないということ聞いてくれないので偉そうについついしてしまいます。それって私生活と真逆なんですよね。童顔で貫禄がなく悩んで髭を生やしていた時期もありました。まあ、これはあまりよくなかったしお恥ずかしい限りですけど、しっかりできるか不安が強かったし期待に応えようと必死でした。
仕事が人を作るといいますか、そういう目線で情報を取捨選択する必要があるから本当にめんどくさいなと思います。ポジショントークの情報は本当に多いですから。「YouTubeで○○さんにはまって、似ているようなこといいだした」と頭を抱える親御さんをみると、特に子供に与える情報を選ばないといけない時代なんだなと考えると大変だなと思います。
自尊心は高い方がいい? 低いとだめ?
自尊心も低すぎても高すぎても問題があります。心の循環理論で説明します。
環境と自身のダイナミックな流れが心の本質だと説明してますが、この流れには比重があります。
自己中心的で、自尊心が高く、自己愛が高い人は 自己の部分を基準に循環を起こす傾向があります。最初のスタートが自分なんですね。逆に、他者中心で、自尊心が低く、自己愛が低い人は、環境や他者中心で行動を起こします。
ここで大事なのは、そのループが滞りなく、悪循環を起こさないことです。問題はバランスで環境がポジティブならポジティブな反応が必要だし、ネガティブなことが多いならそれを打ち消すようにネガティブな反応をする必要があります。
つまり本来なら、ネガティブな自分とポジティブな自分をエアコンの温度のようにアゲサゲできるのが理想的な姿でありポジティブであればいいというのはコントロールを失うリスクがあるということになります。
それサバンナでいえんの?
現代社会はサバンナみたいにネガティブでないので「それサバンナで同じこといえんの」みたいなことは言わなくてもやっていけます。
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このアスキーアート大好きです。
戦争とか災害、大自然の中でのサバイバルだったらネガティブに考えた方が、上手く行くのは想像に難くないのです。
口を酸っぱくいっているのですが、目的次第ではまったくネガティブを変える必要がありません。(だから外来ではどうする?どうしたいと?毎回毎回聞いています)
この全体像を思い浮かべながら行動すると、天才ミケランジェロみたいな逆転した感覚がうまれます。行動が結果をうむのでなく、結果が行動を規定したような感覚ですね。
同時に”自分が消える”みたいな感覚に陥るはずです。仏教でいうと彼我の境地 物我一体、無我ですね。
美しい生活をゴールとするのなら、その生活が思考を規定しています。美しい思考が必要なら美しい生活が必要であり、あれ、スタートどっちだっけ。
親子丼は卵がメインだっけ、鳥がメインだっけ?って感じです。
デカルトも「あれ?、我が思うから我ありだっけ、我があるから、我思うんだっけ?」となります。
繰り返しいうのですが、この循環こそが本質で、性格がネガティブかどうかは本質ではないのです。環境にあわせて考えを変えられない、自分にあわせて環境を変えられないことが問題の本質なのです。
くりかえしいうのは
「ネガティブな自分を変えようとして、変える事ができない自分が嫌になる」
という悪循環に陥る人がいるからです。
普通という幻想を追いかけてありもしない宝をもとめて苦しんでいるからです。
ない山はメスナーでも登れないですから。
冒頭の言葉をかりれば ネガティブな自分万歳!!という一見矛盾した姿勢こそが変化の好循環を生むし人生を楽にしてくれるのです。
ポジティブをむけばネガティブが現れ、ネガティブをむけばポジティブが現れ、むき続けたらなにもなくなるというタマネギのように感じるのはだからこそなのです。
自分があるというのは、全体像がみえているということ
文系と理系の違い
文系と理系の違いもこの循環から説明するとわかりやすいです。考えのスタートが外界基準のものが、理系です。外側に理があってそこからスタートする循環が理系の考え方。理科、数学ですね。基準を人間の内面にするのが文系、国語や外国語、社会などですね。ちなみに医学でも精神科はどっちの側面もあっておもしろいです。心理学は文系に入ってますから。
自分を変えるではなく、人を変えるですから基本的には理系でいいと思います。ここで面白いのが、人を変える≠自分を変える ってことです。医者の不養生とはよくいったもので、これは違う部分が大きいです。”コーチ≠優秀な選手”ではないので当然なことではあるんですが。
そして面白いのが医学は文系的側面もあるんですよね。根っこの本質である仕組みを理解しようという部分は理系なんです。ところが、医学の大部分は未解明領域なんです。すると途端に文系になっちゃう。ひたすらおぼえるだけじゃん。物理より生物やってたほうがよかったじゃん。って学生の時のみんながぼやいてました。
調べたら、日本と海外でちょっち扱いが違うんですね。
https://www.asahi.com/edua/article/13850303
私は高校時代、理系か文系かで迷いました。医者になると決めてからは理系一択でしたが、文系ならば新聞記者になりたいとも思っていました。本が好きだったので。
この記事をみると、悩んでいる学生は多そうなのでもっと垣根を緩くして上げたらとも思います。最終的には繋がっているし、その流れはどんどん加速するはずですから。