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04 曖昧な用語について 

04f 幸せと不幸

幸福も同じようにすごいフワフワとしてます。脳内物質で分類をするとすごいわかりやすいのですが、よくわかってないことも多いんですよね。これはわざわざ私がいわなくてもいいので
 幸福とは死があるからこそ成立する概念じゃないかと思っています。我々は死の恐怖から逃れられないのですが、それを忘れる必要があると思います。
 神のような不死者は幸せを必要とするのでしょうか? 知性の向上で死というのが概念化されたときに、喜びでもなく楽しみでもなく、ドーパミンでもオキシトシンでも、セロトニンでもなく、トータルで幸せって概念が生み出されたのだと思います。
 証明するには不死の人間をつくるしかないですけど。
 進化論的に考えると幸せは、生存確率をあげるために生み出された機能であるのではないかと推察しています。 美味しい食べ物にありつけた。今日も一日生き延びた。自分の子供が健康でDNAが順調に拡散している。生きる喜びです。ところが、ずっと多幸的であるホモサピより、そうでないホモサピのほうが色々工夫できるので生存確率が当然上がる。そこでこのシステムは”幸福感はすぐに消失する”ように調整されたのだろうと考えると筋が通っています。
 循環的に考えるとインプットにより脳内の状態が変わるということです。恒常的な循環でなくポジティブな循環が起きた時のみ幸せスイッチは押されていきます。
 ところが人間はその生存を簡単なものにしてしまいました。寿命はみるみるのび、乳児の死亡率は0.19%です。明日食べる御飯の確保よりも肥満のほうが問題になる。福祉は発展しそうそう生存を脅かす事象はなくなってきた。
 マズローが観察したように生理的欲求、安全の欲求が満たされれば、次に、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求などが現れる。
 その欲求はたしかに、人間の生存確率を上げていきます。
 一見たしかに合理的です。でも、ここで気がつくのは、差分です。

時間の経過で状況が好転している。

数学でいうと微分したときにプラスになる。

山で例えると坂道を登っている時。
 そんなふうに状況に変化=差分がなければ幸せがないんです。


 ひるがえって不幸ってなんでしょうか? 不幸をうながすホルモンはないのにです。
人間の脳って不安や恐怖を感じる機能はあります。また、氷河期に獲得した超省エネモード”デプレッション(うつ)”もあります。そしてドーパミン系の渇望があります。
 恐怖については部位ははっきりしていて、人間の古い脳の一部である扁桃体の機能です。なぜならここに傷がある人間は恐怖や不安を感じないとしられているからです。不安がないと、人は毒蛇を触り、熊の巣の近くを無防備にさわり、毒茸を平気で食べてしまうのです。ところが、不安とは環境をプラスに改善にするためにも働き、未来に関する予測不可能な事象に対してもターゲットされ不安になるために合理的でない不満も感じてしまうという致命的なバグがあります。
 喪失感はあります。何かを無くしたときや、氷河期などの非常事態には人は省エネモードに入ってしまいます。
 それだけだといまいちしっくりこないですよね。不幸はもっと広範囲なものです。
”幸せでない”ことを不幸であると定義し循環的に考えると二つの不幸が浮かび上がります。

  1. 循環がネガティブな場合。
  2. 循環が恒常的でありプラスの差分がないとき。

1)に関してはわかりやすく損をしていると思うような時です。また、痛みなどのネガティブな信号を広い、恐怖に怯えている時です。これは認知が問題なければ合理的な機能です。

 問題は2です。
 合理的に考えれば現状維持はまったく問題がないのですが、これが人間の抱えているやっかいなバグです。なにもないから頑張るというのは一見合理的ですがそれは成長や問題改善に天井がない場合です。
 ドーパミン系の報酬系は”渇望”モードがあります。これは本来人間が御飯を探す為の機能で、”探索行動”をうながします。お腹が減ってなくても御飯を探して蓄えて起きたいという欲求です。ところが、ギャンブルやアルコール、ショッピング、はたまたリストカットなどの悪循環の可能性がある行為にもこの渇望モードのスイッチは入ってしまいます。
 また、未来に対する恐怖が強いと、現在を改善するための行動に移りますが、これは暗闇を怖がるのと全く同じ機構なの基本的には終わりがないです。改善が常にあれば不安は比較的減少しますが、改善がなくなったり頭打ちになった瞬間不安は強くなります。 強迫の人の手洗いが終わらないのも、金持ちが10億稼いでも不安がなくならないのはこのためです。
 サッカーで例えると、人間は攻撃的になったり、守備的になったりする際には比較的に合理的な感情をもてるが、恒常状態を維持することに関しては合理的に考えられないということです。 サッカーでボールうごかさないとかあり得ないですよね。 ボクシングでみあってたら注意されますよね。柔道も教育的指導がはいります。
 まとめると幸せの追求はやっかいなバグを抱えている機能だと言えます。 山に登り続けている限り幸福であっても山頂についたら空しくなったり下山を楽しめなかったら人生は損してますよね。

 オリビアを聴きながら幻を愛しても空しいだけです。咲いていない花でなく咲いた花を存分に愛でましょう。

  • この記事を書いた人

モジャクマシャギー

 アラフォーの精神科勤務医です。自分の外来や診療が円滑になり、利用者さんの治療がスムーズになることを目標にブログを書き始めました。   ですが、いろんな方にもみてもらってやくにたてたら嬉しいです。  病棟業務を中心に児童から認知症、最近はインターネットゲーム依存まで幅広くみています

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