ある時、外来の利用者さんが、診察に入るなりいいました。「私、わかったんです、私、死にたいわけでなくて生きる覚悟がなかったんです
」私は、その言葉に強い感動を覚えました。その方の背景をしってもらえれば私が受けた感動をより鮮明に理解してもらえると思えるのですが個人情報ですので、大変な困難のなかで頑張っているとだけ書かせてもらえます。
まず、その方が色々もがきながらその言葉を発したことに感動し、それ以上にその言葉が持つ意味の深さを感じとりましたが、その日は言語化できませんでした。
それから、色々考えていました。
”生きる覚悟”
美しい響きです。
この感覚と感動を同じように虚無感や死にたいと考えてしまう人達に届けたいと考えていました。入院の患者さんとのやりとりで死にたいと考えてしまう方がいて、話すのが苦手なので手紙のやりとりをしているのですが、ある時、この言葉を伝えました。内容は違いますが下記のような内容です。
”世界は、予測できず、約束も保証もなく、我々は小さく無力です。努力が報われるとは限らず、ものは必ずこわれ、人は必ず死にます。そうじゃないという人は大勢いますが、気がついていないだけです。世の中は虚無で控えめにいってもクソです。
多くの人は、テクロノジーや人類の知恵の上に立ち、その世界の残酷さに気がついていないだけです。ただ幸運にも気がつかず本当に幸運な人は死ぬ直前に世界の本質に気がつきます。遅かれ早かれ気がつくのですが、貴方は若いときに人よりはやく気がついてしまったのです。
世界は暗闇のように貴方を不安にさせ、嵐のように貴方をなぎ倒すでしょう。海のように美しく残酷で、空のようにつかみ所がありません。
また幸運にもその世界の残酷さに気がついていない人々も決して幸せではありません。テクノロジーは我々から遺伝子に刻まれた生きる喜びを奪って仕舞いました。飽食におぼれ、安全にあぐらをかき、あまつさえ危険を他人のせいにし、比較のなかで無意味な競争を生きる意味にしそのために他者をこけおろし、”普通”という社会から押しつけられたものを神のようにあがめ、仲間であったはずのものは財産を奪うかもしれないと疑心暗鬼をうみ、人の不幸の情報でお金を得る人々がいる。暗闇から走って逃げるように刹那的な娯楽に興じるしか道はないのでしょうか。
貴方に必要なのはちいさなちいさな生きる覚悟です。生きる勇気といってもいい。死にたい気持ちを死にたくないという気持ちに変えることでなく、他の人の喜びを得たいと思うことですなく、人と同じような道をさぐるのでもなく、人よりすぐれたところをさぐるのでもなく、自分を愛してくれる人をもとめ苦悩することでなく、両親に対し後ろめたい気持ちを消し去りたいというわけでなく、肉体がもつ苦しみを消し去るように娯楽や薬にすがるのではありません。そのことはむしろ苦しみをさらに深めるだけです。その苦しみのなか小さく前にすすむその一歩こそが貴重で価値があり、本当に大事なものなのです。
それは、大海を渡る小さな蝶の羽ばたきです。ちいさなちいさな空気のひとかきです。暗闇のなか息をひそめる小動物の呼吸、嵐のなか岩にしがみつく小さな高山植物の根、海のなかで前を進む小魚のひとかきのように、本能ですすみ続ける渡り鳥の小さな羽ばたきのような世界の大きさにくらべればちっぽけなものです。
死にたい気持ちをかかえ、根深いコンプレックスをかかえ、家族との葛藤をかかえ、友人の死に苦しみ、自分の道を暗闇を這うように探し、苦しみのなかにある小さな喜びを夜露のようになめ、肉体の苦しみを岩のように抱え、それでも一歩だけすすむ勇気です。
人々はいうでしょう。生きていればいいことあるさ。努力すればいい。そんな安易な考えになれないことを貴方は知っています。
しかし、苦しみに背をむけてもなにもないことをもう知ったはずです。苦しみから逃げた先にはなにもないことを。同時に、人がありがたむ大きなものが虚飾のきらびやかさに覆われその裏には虚無的なものがあることを。
この先になにが待っているかわかりません。暗闇を歩くのは怖いでしょう。
それでも前に進みましょう。なぜなら、本当に価値ある物は大きなものではなく、小さな小さな一歩であり、それこそがこの虚無と暗闇のなかで唯一の道しるべであり、貴重なきらめきなのです。”
ここまで書いて、さも自分の言葉のようになってしまっていて、お恥ずかしい限りです。しかしわかっていただきたい。
”生きる覚悟がないと気がついた”
この一言によって私がどれほど感動したか。
貴方の小さな努力を誰も褒めてくれないかもしれない。結果などみえないかもしれない。不安に押しつぶされそうでしょう。
しかし、私は、あなた方が一日一日必死で生きる姿に私自身がどれほど励まされたか。この仕事をやってよかったと幾度となく思ったかをここで伝えたいです。
海渡る蝶をみたときの感動と同じような気持ちで一歩一歩進むあなた方をみていることを伝えたい。
あなた方がもつ”生きる覚悟”というのは貴方だけが抱える小さな道しるべでなく、私が抱える虚無を照らす小さな星の瞬きなのです。