にゃんこ先生には家猫先生と野良猫先生がいます。どちらも素晴らしい先生です。
ここでは社会問題としての”野良猫”問題は問いません。私は詳しくないですし、議論する立場にないですから。
全体像としての社会問題と個人としての状況の問題は全く別で、人間だったら上から目線で一律にかわいそうといわれたら、すごいムカツクと思いませんか? ドラマ家なき子の「同情するなら金をくれ」って言葉は本当に名言ですよね。猫だった可愛いと思うなら餌をくれって感じですかね。
そもそも、動物の問題は”過度な一般科”というバイアスが入りやすく本質的には”それは猫による”という議論がほぼほぼ入る余地がないです。猫だから飼われるほうが嬉しいはずとか、動物をペットにするのは傲慢だとか、人間だったら「その人に聞いたら」で住む問題が聞いても「ニャー」としか答えることができず「ほら、嬉しいといっている」「嫌だといっている」と恣意的な情報としてかとらえられず、猫とホモサピの間には本当に深い川が流れているんですね。
だけど、人間には言葉があるので、川を挟んで話ができます。
ここでは野良猫の素晴らしさと、家猫の素晴らしさを語らせてください。
野猫は素晴らしい生き物です。ホモサピの思惑に左右されてその猫生をかえられていますが、生き延びている。 様々な問題を抱えながらもその美しさや気高さは胸をうちます。人から餌をもらっても気高さをうしなわず、警戒心もうしなわずギリギリのバランスでシビアな環境を生き延びる。
家猫も素晴らしい。狭い環境のなかでも遊び心を失わず、愛嬌と拒絶のバランスを心得ている。 狭い枠組みのなかでも 美しさと気高さを忘れない。どこまでも自分を大事にしていて他者に対して侵入的な行動はしない。音も匂いも気遣い一緒に暮らすことのハードルを下げてくれている。その結果、人間は「飼っているのではない。かわせて頂いているのだ」ということに思いにいたり、ペットとして見下さずフレンドとして生きていく。
この素晴らしい環境適応能力!!
猫は野良猫から家猫にするのも、家猫から野良猫にするのもすごい大変なのは周知の事実です。 我々は学習することができます。
人も同じように、野良猫のように育ち野良猫のように生きている人と、家猫として生まれ家猫として死んでいく人、なかには野良猫として生まれたけど家猫として生きようとしている人、家猫として生まれたけど、野良猫のようになりつつある人など様々です。
野良猫のような人は、たくましく争う事に長け人をタフで自由を愛しますが、その反面猜疑心が強く、自分すら信じてません。冒険心にあふれ、多少打ちのめされても前にすすむ強さがあります。
家猫のような人は、平和を愛し、人を信じ、制限の中に生きていますが、その反面、繊細でうちのめられやすく固定観念にしばられがちです。他者の思いやりにあふれ隣人愛をもっています。
あなたはどっちでしょうか?
社会が高度に熟成をしていくと、野良猫マインドをもった人は少なくなってきます。猫では、野良猫と家猫は共存することがないです。半野良というのはいますが、ここでは議論の対象外とします。
ところが、人間は野良猫マインドをもった人々と、家猫マインドをもった人々は一緒にいきていかないといけません。
世の中の殆どは、家猫のためのものです。ルールを守り、順番があり、常に平和で刺激は少なくしちゃいけないことのほうが多い。
ここに辛さがある。
どうすべきだとか、なにが正しいだとかは私には言えません。野良猫がたくましく生きている姿をみて美しいと思いますし、家猫のかわいさは否定するよちなどなく神々しいぐらいです。
ただどっちにも「もっときらくにしにゃーよ」と言われている気がします。「そんな難しいこと考えずに今日をいきようにゃ」
にゃんこ先生は本当に色々な大事なことを教えてくれるのです。