もし、世のなかに北極星がなかったら? 考えたことありますが? 沢山の船や、砂漠をいく商人は目的に付かず、歴史はかなり替わっていたでしょう。同じように、治療のゴールのイメージはすごく大事なのですが、外来にこられるかたは、ここのイメージが殆ど無いか”普通”といった曖昧な方ばかりです。
これは、あなたの北極星をきめる話です。
「普通になりたい」「普通ってなに」
これもエビデンスがない話なので、個人的な経験が主体な面は否定しません。
私は40歳近くになるまで、自分の心の状態がどの状態がベストかまったくわかっていませんでした。ああ、こういった状態が自分にとって健康なんだと思えたのはほんとに最近のことです。
フロイトの精神分析入門(専門書だとみなさん勘違いされるけど、大学講義のまとめなので専門的な文言はすくなめでミステリー小説ぐらいの読み安さです)を中学校の時に読んでから、こころに関心をもちいろんな哲学心理学など読んで仕事してから映画や小説漫画も含め、いろんな知識を蓄えたくさんの人と話していたのに、わかっていなかったと思います。みえていなかったとういうことが正しいかもしれません。
外来にくるかたに私は繰り返し治療のために”どうなりたい?どうしたい?”という質問をほんと繰り返し行います。これを繰り返す理由は、明確で本質的で正しく実現可能なゴールの設定こそが治療の本質だと思うからです。よくでてくるのは
「普通になりたい」
普通って具体的にはなに? どんな状態?と聞くと、だいたいが「わからない」と答えます。
さて、普通ってなんでしょう?これを読まれているかたでわかる方がいたら教えていただきたい
平均? 平凡? 目立たないこと? 後ろ指さされないこと? まわりと同じことがやれること?
国語辞典的な意味合いは別にして私にとって心の健康と普通ってのは相いれない概念です。
個人的には治療目標として設定してはいけない概念だと思います。
心というのはブラックボックスで環境に対し反応するシステムと定義すると、そのブラックボックスの状態に平均的な概念を持ち込むと多くの矛盾が起きてきます。そもそも、この普通という概念は人間が社会的な動物であり、50人ぐらいの集団で狩猟や低規模の農耕をやっているときには非常に有用なイメージですけど、それ以上に大規模になると法律で縛らないといけないぐらいに破綻しやすい概念です。
まあ、私がADHDで定形発達みたいな概念にちょっともやっとするとうポジショントークである側面もありますけどね。
自分を”普通”だと思っている人は逆にここをつっこまれるとイラっとするかもしれません。
しかし、多くの人が、この”普通”になれずにまるで平家の落ち武者のように精神科外来に訪れます。でも、目指す普通がなにかはわからない。
最初の一歩が最後の一歩を決める。最後の一歩が最初の一歩を決める。
この話題は長く難しく感じる人もいるでしょう。逆にいうとここがわかるだけで楽になる人も多いはずです。難しいですが結果的に難しくみえるだけで、本質的にはなんら難しい事ではなく当たり前のことを言っているだけなのきっとわかってもらえると思います。
要約すると
- 体の健康と心の健康は違う
- DNA 目線でいうと健康の定義はわかりやすいが、ずれている。
- 診断基準は結構の指標としては未完成である。
- 心の健康は人によって違う。
体の健康、心の健康
体の健康と心の健康は違います。ゲーム風にいうと物理攻撃と魔法攻撃ぐらい違います。
体の健康の一つの定義は体が”ホメオスタシス(恒常性)”というものがあるからです。例えば体温はだいたい、36度前後ですよね。40度になると大変、学校や仕事をやすまないといけない。血圧や脈拍、電解質の値も基本一定に保たれています。多くの病気はこの”ホメオスタシス”というものが破られまた、”ホメオスタシスを取り戻す”というストーリーで治療がなされます。
そして最終的には死を回避するという明確な目的があります。医学校では最初にならう部分ですよね。このへんはすごく感動的です。人体の神秘です。
ひるがえって心はどうか?恒常性はもちろんあります。でもそれよりも流動的でファンタジックで幻想的でつつかみどころがないですよね。
DNAにとっては生き延びて子供を増やせば心は健康である
心の健康というのは切り口によってかわります。私たちの体の中にいるDAN先輩からすれば、”生き延びて子孫を増やすこと”がゴールでこの道からそれれば心は健康でないといえます。これは利己的遺伝子という面白い考え方があります。私たちは遺伝子の乗り物でしかないという考え方ですね。割愛します。
じゃあ、子供をつくらない夫婦は健康じゃないの?
そんなことはありません。
じゃあ、生きる力がなく生活保護でなんとか食いつないでいる僕は健康じゃないの?
そんなことはありません。
これはDNA先輩の言い分です。端的に言えば、心の健康は個々によって違うからです。
心の循環モデルでは心は動的な存在で、脳の状態を指すわけではないと仮説を立てました。つまり環境と肉体との相互作用で川と海の関係のようなものだと。その関係性の中で恒常性がある程度保たれている状態が心の健康だとも定義できます。しかし、これでも足りないですね。
リストカットや過食をすることで様々なプレッシャーのバランスをとっていて恒常性を保っていてもそれで健康とは言い難いですよね。もちろん破綻があるのでこの定義は僕はよく使います。
本当は健康を定義する診断基準があればいい
多くの精神科医はICD-10やDSM5などの、診断基準に基づいて保険病名をつけて加療をしています。じゃあ、この診断基準に当てはまらなかったら健康なの? 診断基準の理念的にはこれが理想ですね。そうい雨診断基準ができるといい。ただあくまでも理想で時代とともに診断基準はかわっていくし、これにあてはまらないでも苦しんでいる人もいるはずです。
結局、共通の定義なんてないのでは?
仏陀先輩は心そのものが苦しみを生み出すといってました。この考え方は好きです。
キリスト先輩は神の愛を信じていないから苦しいといってました。この考え方も本当に救いですよね。
じゃあ、セロトニンとか、ドーパミンとか、オキシトシンのバランスが取れていればいいのか? じゃあ、幸せな感情になる薬を死ぬまで破綻なくのめれば幸せなのでしょうか?
過去の記憶が素晴らしく美しい思い出の中にあり、現在が安心のさなかにすみ、不安なき未来像の中にいることが心の健康なのでしょうか? 理想ですけどそんな人間って数えるほどしかいないですよね。
みも蓋もない言い方かもしれませんが、”あなた自身が決めた健康の定義の中にあなた自身がいる”これが一番しっくりきます。
我々の健康、意識、過去の記憶は大きな”幻想”です。我々の脳は神様がいるのならリコールしたいぐらいの欠陥品です。
過去のことは感情を軸に大幅な編集が加えられ、その記憶が大金を費やしてその結果B 級映画以下のもので金返せと言いたくなるほどの駄作であっても僕らの脳は簡単に再編集などしてくれないです。 私は今でも恥ずかしい過去のフラッシュバックに悩む日々です。
未来の予測は不安に彩られ、しかも当たらない。料金が高く時間の拘束も激しい占いのほうがましです。
自分は常識をもっていると思う人が悪気なく人に迷惑をかけてしまう。みなこのくらい常識をもっているだろうと期待し常に裏切られて無駄に腹がたつ。
愛すべきこの多様性と混沌を生み出している根源は我々の心です。
石器自体の心の定義はおそらく簡単だったでしょう。死なない人が心が健康だったのです。でも、簡単に死ぬことがなくなった現代、無数の娯楽と現実逃避があり、機械という理想的な従業員を地球が貯金した化石燃料で働かせている現代において心の健康の定義とは多種多様によって当然だからです。
しかし、この自分で心の健康の定義を決めるということはすごく難しい。
次節では、なぜ難しいかを説明します。
なぜ「普通」をきめるのが難しいか?
いくつかの要因について考えていきましょう。これはパソコンやスマホで最初は例えてみましょう。 エラーのないPC、使いやすいスマホとは何でしょうか?
PCで例えると
- 1)そもそも成熟してない。
- 2)エラー修正が十分でない。
- 3)作っている人そのものがエラーがある。
- 4)OSがまわりと違う。
1)はバージョンが低いってことですね。人間だと経験が少なかったり子供であったり、そもそも病気のせいで疾患や自分について知るという行為ができないというところが一因ですね。最初のマックは本当にひどかったですね。我々のせすぐフリーズしてました。まあ、いつかこの成熟する日がくるのかと思うけど、結局広告が増えてく新聞と同じでユーザビリティの面でいえば惨い物です。
2)はエラーが明らかにでているのに無視したりそれを修正しない、もしくはできないってことです。初期のウインドウズはフリーウエアがタケノコのようにありましたが、バグはむちゃくちゃありましたね。
3)これは環境因子や社会的な因子ですね。周りがそもそもエラーだらけであったり、本人がまわりと違いすぎたり、時代の変化で必要とされる機能がちがったり せっかくエラーがすくなくなって熟成されたと思えば、誰も必要としてない機能を足してみて重くなったりして、このソフトやアプリやめてやるって経験みんなあると思います。
4)はマック、ウインドウズ、Linux、クロームなどの違いですね。人に例えると、文化圏の違い、生まれ育ちの問題ですね。
循環モデルで考える。
4つの要因に分けられます。
- インプットの問題
- 内的な要因
- アウトプットの問題。
- 環境要因
①インプットの問題はすなわち、情報がない、もしくは聞こうとしてない。理解できてない。ということです。もともと定義がないわけですかからここが滞ると当然理解できません。
②内的な要因は与えられた情報を処理できない。もしくは古い情報に支配されているということが言えますね。
③アウトプットの要因は情報をえるために行動ができない。わかっているけど話せないという状況になります。
④ 環境要因 これはやや複雑です。状況、時代、人間関係、タスク(仕事)、天気で普通ががらりと変わります。
歴史を振り返えると農耕が始まる前のホモサピエンスであれば、大自然という環境ではありますが、50人規模のすべての顔と名前が一致できるぐらいの人数で破綻なく生活できたと思います。これはそれらの民族が生き残っていることからも優秀なバージョンであるといえます。ホモサピバージョン1です。
農耕後の人間は人数が多くなり法律や宗教を必要としました。ホモサピバージョン2ですね。ここからエラーが多くなっている印象です。 グーテンベルクの活版印刷術を経て四つの産業革命をへて、ホモサピのバージョンは今やウインドウズもびっくりです。ホモサピバージョントリプルエックスぐらいですね。エラーなく生きるための知識そのものが膨大です。もともと、”生きるため”のプログラムが”よりよく生きるため”という目的に書き換えられ、毎日毎日バグフィックスに追われるプログラマーも真っ青の毎日をおくってます。
日本人が子供を成熟させるため=大学までいかせつため、心のOSを得るためのお金は、一人あたり3500万。これは大学まで行かせた場合の教育費です。
必要とされる知識の多さ。そもそもなんでこんなに毎日バグフィックスに追われるのか理解していない人が大半で”生きる意味ってなんなの”って思っちゃう人が大半ですね。
名著”ホモサピエンス”では「まるで詐欺にあっているかのようだ」と農耕革命以後の人間をそう表しています。
予言します。発達障害の定義は今後ますます増えていきます。精神疾患の定義も同じです。減ることはなく増えていくでしょう。だって、エラーそのものをとる技術は増えたとしてもそれえをうわまるスピードでエラーが増えていくから。これはパソコンやスマホのOSが決して成熟することはないということと同じにみえます。よりよく行きたいといういうのは際限ない問いです。
この環境要因の変化、複雑さが心の健康の定義の難しさの大前提です。
次に別の観点でみてみましょう。 最初の循環モデルで心を考えていきます。
心をブラックボックスで考え、環境要因を考えないスタンドアローンとして考えるのならパソコンと一緒でエラーがないというところだけで普通というのを決めることができます。人間の機能を定義し、その定義から外れたものをエラーすることで定義が成立します。ところが環境を含めて機能に問題がないというところがみそで、その時におかれた状況におって、機能自体が変わるので常に定義がさだまらないと言えます。
会社のパソコンをみればわかると思いますがだいたい、会社の支給のパソコンってウインドウズばかりですよね。これがマックも混在するとメンテナンスが煩雑になるし、わけわからないパソコンが増えると故障した場合のパーツやらエラーが出てきたときの対処がかなり大変なのが解ると思います。人間の自我の部分の多様性はパソコンの比じゃないです。混乱するのも仕方ないと思われます。
よくたとえ話でいうんですけど、100人住む島があって 99人が正常で、1人だけが狂っている島と99人が狂っていて一人だけが正常な島の違いはなにか?
という設問をよくします。
一人の人にとっては住みずらいですよね。
ADHDで例えると99人が定型発達、一人がADHDである島と、99人がADHDで一人が定型発達である島があったらと考えたら。
想像したら容易なんですけど、ADHD にあわせて環境や仕事がデザインされていくので一人がマイノリティになってくらしづらくなる。「なんでお前は落ち着いているんだ」と悪口を言われれるかもしれない。 忘れ物を少なくする環境や、ミーム(伝染する考え方)がADHDに有効なものが増える。ADHDに向いた仕事が中心となる。 まあ99%は大げさかもしれませんが、ADHD自体は狩猟に向いているのであり得るかもしれません。
こう考えると、発達障害や、PTSDやらの概念が現代において急激に発達したのもうなずけます。考えてみれば当たり前のことですが、環境自体と個人の連続性そのものが疾患を定義してしまうのです。
まとめると
まとめると、心の健康の定義は自分で自分の定義を決めることがそもそも難しい。かつ、環境によって必要とされる定義が変わるために、成長や環境の変化、時代によって変わってしまう。
統合失調症の有病率が時代によってかわらないのも、環境によって必要とされてきたせいであるとも考えられます。
私は40歳近くになるまで、自分の心の状態がどの状態がベストかまったくわかっていなかったのは、こころというものが脳にあると思っていたせいです。脳に原因があると考えていた。
普通とは要するに”環境によって定義された(と勘違いしている)正常の概念”とするとわかりやすいのではと思います。
学校での普通 会社での普通。 SNSでの普通。
どれもが違います。
心というのはブラックボックスで環境に対し反応し環境を調整するシステムと定義すると、そのブラックボックスの状態に平均的な概念を持ち込むと多くの矛盾が起きてきます。そもそも、この普通という概念は人間が社会的な動物であり、50人ぐらいの集団で狩猟や低規模の農耕をやっているときには非常に有用なイメージです。それ以上に大規模になると法律で縛らないといけないぐらいに破綻してしまいます。
普通という概念を否定するわけではありません。一クラスである50人ぐらいの集団を維持するためには非常に有用な概念だからです。
でも、普通という言葉にとらわれていては、心を病んでしまう。それは貴方の北極星にはならない。
心の健康の本質は環境との循環において”矛盾なく破綻がないこと”です。
ここが本質であり、まわりとなんとなく合わせることが本質ではない。あなたにとっての健康はあなたが決める必要がある。同時にそれは環境にも即している必要がある。
そしてその一歩はあなたが踏み出す一歩で定義を構築する
医者に言われたから、親が言っていた、先生の言う通り、クラスメイトがそうだから、上司がそうだから、ユーチューブで言っていたから、それも大事です。
そしてあなたがどういうことが好きでなにが向いているか、自分の限界や可能性、そのすべてが
固い話が多くなったので「俺が信じるお前でもなくお前が真実俺でもない、お前が信じるお前を信じろと」アニメグレンラガンのアニキの台詞でしめさせてもらいます。
自分の健康の自分での定義の決め方
心の循環モデルで心の健康の定義の難しさを説明してきました。じゃあ、どうやって心の健康の定義を決定すればいいでしょうか。
今後、私のこのブログを最後まで読んでいただければば、最初のこれがいかに大事かわかってくると思います。
”自分の健康を自分で決めるプロセス”がいかに重要かつ本質的であるかがわかると思います。そんなのあたりまえじゃん、なに当たり前のことをいっているんだよというひとはきっと、悩んでいないので読み進める必要はないと思います。
前回、パソコンに例えて考える。循環モデルで考える。環境要因について考えるという風にわけてなぜ定義が難しいか論じました。 難しいならじゃあどうすればいいか?
という問題になります。 それぞれが深いテーマですので一個一個分けてかんがえるべきですがここは総論としてざっくり説明しましょう。
- インプットの健康を定義する。
- 本人の心の定義を決める。
- アウトプットの健康を定義する。
- 環境の健康を定義する
- 全体の循環の定義をする。
- 定義自体をあきらめる。
①
インプットの健康を定義する。
これはわれらがアジアのスーパースター 仏陀さまが本当に素晴らしいことを言っています。
正見 すなわち正しくみる。見解を正しくする。という意味ですね。いわゆる八正道の最初の一つです。
イタリアのスーパースター 、ユリウスカエサル(ジュリアスシーザー)→ローマの歴史もいってます。「人はみたいものしかみない」 文筆家、軍人、政治家、マルチタレントであった人の言葉は深いですね。
これは基本中の基本ですが本当に難しい。今日生まれ落ちた無垢な赤子のように、あるがままの世界をみることの難しさ。これができると認識の世界で鳥のように自由になれます。
これはいくつかの問題から難しいです。
- 身体能力の限界。脳の処理能力の問題。
- バイアス 偏見や思い込み
これもブログで解説していきます。
② 本人の心の健康の定義
これに関してはさまざまな本が無数に出てます。前向きになればいいとか、楽になればいいとか、頑張ればいいとか、愛をもてばいいとか、いろんな啓蒙書などが様々な切り口や理論でかたり年々増えていっています。 難しいのは
- かわることができるもの
- かわることができないもの
この見極めと
どのモデルケースを真似すればいいのか?
本当にまようことでしょう。
このモデリングも深い話題ですので別個に話題をさこうと思います。
本ブログではモデリングという切り口から語っていきます。
③ アウトプットの健康を定義する。
これは比較的簡単でおすすめで最初から取り組むこともおすすめです。なぜなら訓練次第で多くの人がどうとでもなる分野だからです。
環境にたいするアウトプットは対人対人以外に大きく分けられます。多くの認知行動療法の宿題もこのアウトプットから始まります。
これでいいのはコミュニケーション(アサーショネス)。行動のルーチン化を軸に語っていきます。
④環境の健康を定義する。
ここは、一番難しいですね。なぜなら情報化社会の手は異常に長いです。そして、環境は全体は広大で全体的な定義は難しい。でも、貴方の部屋を片付けることは可能なはずです。 これは逆にするしかないです。
コントロールする世間を自分がコントロール可能なくらいで最小限ぐらいに狭くするということが必要です。すると基本的には楽になります。仕事にこだわりがある人にはここが辛いです。
同じ山でも、直登か、巻いていくかで難易度が違うように、自分が選んだシチュエーションで状況は違います。自分にとって意味があり、コントロールできる、チャレンジできるルートにすべきです。
5 循環の健康の定義
これは基本的には①~④が滞ってないということが大事になります。情報が循環し、またポジティブな作用が循環していることがあればとはおもいますが、それは貴方のゴールによります。例えばパートナーとうまくやっていきたいということであれば、パートナーとポジティブな循環をしたいのであれば。お金が欲しくて仕事を頑張りたいのであれば。それにフォーカスをあてた循環のコントロールが必要になります。
6定義自体をあきらめる
いまさら、なんだと定義の話をさんざんしてと思われるかもしれませんが、上記の話自体ってすごい難しいですよね。理屈自体も細かいし。で、次の節で、”自分で決めない” ことをテーマに書いています。そもそも”方向性”であってこれは、小説や漫画、映画のテーマに近いものでゴールではなくても心の健康は保てるんです。もちろん、なりたい自分があるのならそれに越したことはないのですが、外来に来られる方は健康になりたいというところがテーマなのでそこまでは必要ないですが、大きなことを成し遂げたいのであれば吟味は必要です。
ですが作品のテーマとオチは違うように大体の方向性が定まれば良しです。
健康を人に決めてもらう
いろいろ、心の健康の定義の難しさについて話をしてきました。そんなのいわれてもわからないよという人はたくさんいると思います。
でも我々ホモサピの知恵と勇気があります。
定義がないなら決めてしまえばいいのです。もしくは自分が決めた定義に入ってしまえばいい。それからイメージの力(言語に頼らない思考)別の節で語ります。
- 人に聞く。人を観察する。
- プロに聞く。
- 本を読む。
- とりあえず健康そうなことをやる。
- モデリング。
1-3は特にいわなくてもいいですよね。いつもみなさんやっていらっしゃることです。
4は行動して考えるという直観にしたがう行動ですね。
私は衝動性が高いので4から得られる経験も馬鹿にならないと経験上知っていますがリスクも高いので必ずおすすめしないです。
5は人生に差がつくポイントですね。
モデリングとは要するに人まねです。これは、家族など近親者の影響が大きいです。親や兄弟が健康的にみえるならぜひ真似をされたほうがいいと思います。
役者とか、創作のキャラクターでもぜんぜんかまいません。観察し真似をする。
ただこれは出会いという運要素が大きいです。
かつては、親と先生、祖父母をまねすれば事足りていたのが、先輩方に聞いても初体験のことばかりで、「どげんかせんといかん」ってことが多いし、今後も加速していくので誰を真似すればいいか混乱する。とはいっても、テレビとか、ユーチューバーとか真似するってのもまだ怖い。
ここで目立つ人をモデリングしても苦しくなるだけなんですよね。
前の節で、個別性が大事といいましたが、ベースとなるDNAや文化基盤が違うひとをまねてもリスクが高いです。
ですが当たればでかいです。個人で決めるには膨大な時間がかかる要素やミーム(習慣、考え方)を短時間で習得することも可能です。
まさに、師はもとめた時に現れるです。(この金言の元ネタをしらべましたが諸説あるみたいです。)
また、面白いのはこのモデルをみずから作る手法です。テレビでお笑いの人がいっていたんだですけどソースが私の記憶なのでイニシャルで書かせてもらいますね。
「K先輩(大御所)は50ぐらいになって自分が本になって伝記上のイメージしていて、迷ったらその本に書いているほうを選んできたといっていて、こりゃすげーや俺も真似しようと思って」
頭の中に理想をつくって行動するパターンですね。直感的なイメージを使って行動するというやり方で、一見すると合理的ではないですが、無意識にプールされた情報で理想のイメージを組み立てるのは悪くないと思います。
テレビとインターネットにより、モデリングがテレビだけでなくネットにもうつったことにより、学ぶべき対象は増えたのではと思いますね。検索すれば生き方を調べれますし。テレビの芸人やユーチューバーが好感度大事になったのも、そうやって学んでいるのではと推測してます。
コンビニに愛はうってないけど、ネットには愛が転がっていますから。
ただ、医者としては、患者さんに”私を真似すればいいよ”といえない不全感もあります。心持としてはADHDのお子さんや発達障害とかみているとシンパシーを感じることも多く、本来なら”私がお手本だ”と胸をはりたいところですが、堂々と言えないのはまだ私が未熟な証でもあります。
ただ、こう考えたら楽になるよといった点はもっと伝えたいし、このブログでも伝えていきたいなと思います。