人が求めてやまないエルドラド、まだみつからぬシャングリラ、
癒しと幸せについて考察していきます。
癒やし
英語でいうならヒーリングですかね。ドラクエでいうとホイミか宿屋ですかね。この言葉も非常に曖昧です。
- セロトニンが適正にでる?
- 副交感優位の状態?
- オキシトシン?
- 現実逃避?
- マインドフルネスの状態?
- そもそも、癒やし? 癒し?
- 日向ぼっこ?
- 旅行にいく?
- ふわふわの人形をだけばいい?
- かれぴと一緒にいれば癒やされる?
- 笑い?
皆がもとめみつからないシャングリラとか理想郷に思えます。
正直いうと曖昧すぎてすごく苦手です。これはやっかいな言葉で、ゴータマ様も「苦しみも喜びも幻」っていってるのに、仏教には”癒し”をもとめる人がいる。いや、だから無いですから、最初からいってまんがなと、商売人だったら真っ青ですよね。
「癒しなんかないぜ、一切空だぜ。」「その言葉に癒やされました」の声続出みたいな。いや、本当にロックスターみたいです。
キリスト教では天国の救済があるから癒しがあるのかもしれません。この辺りは文化圏が違う人に聞いてみたいですね。
便利な言葉かなとは思いますがこれをわざわざいうのは。
”癒しは治療の入口とゴールにしにくい”ってことです。
- ①定義が曖昧
- ②再現性が曖昧
- ③そもそも一時的な状況をさしている場合が多く恒常性に乏しい。
その人にとっての癒しを定義することは非常に意味があります。
しかし、この言葉のままだと、具体的なアドバイスがしにくいです。
集団心理の現象としては興味深いですがね。私も嫌いなことばじゃないし。
ただ私の治療は基本的には”問題の解決”であって癒しではないと思っています。ここではそのあたりも説明できればと思います。
そう考えると私は癒し系ではないと思います。しかし話すだけでホットするお医者さんは確かにいるので私には見えていない世界があるのでしょうね。
三つにわけて考えます。
- 悲しみを癒やす。
- 苦しみを癒やす。
- トラウマを癒やす。
悲しみを癒やす。
悲しみとはなにか?
一般に愛着の対象を失うということで悲しみは起こります。愛着のベースは乳幼児期には母親に対する執着や依存、自分の体に対する執着やら依存。がベースになっています。もし人間が、卵胎生で多数生まれるタイプであったり、母の養育期間が短ければもしかしたら、この悲しみの感情も別だったかもしれません まあでも、この二つの感情を軸にして、他者や、時には人間以外に対して愛着の対象を持つのがホモサピエンスです。
他者に対するもの、自分に対するものであっても感情の機能としては、同じ部分を使っているようです。
つまり、人間の社会性を支える機能の一つとして愛着や愛情、情や”なさけ”共感能力など、他者とのつながりを強化する機能があり、その機能を強化する形で”悲しみ”という機能があると考えれば一見筋が通っています。
進化論的に考えるとこの二つは非常に合理的です。生存確率を上げる機能だからです。ところが同じ機能を使って、他者を自分の体の一部のように感じる機能は、生存率を上げない状況でも働いてしまいます。
しかし悲嘆反応は様々で人間の場合は遷延しがちな気もする。日本では49日といって葬式後喪に服す期間がありますが49日の間まともに仕事ができなければ生存率を下げるのは当然予想ができます。
悲しみに沈むことで生産性を下げている。これは、一見生存率を下げているようにもみえる。悲嘆の処理をきちんとやれないと、うつ病や、性格変化や、引きこもりなどのリスクを抱えてしまう。母が子供を失い長期にわたって悲しみに沈むのは、心情的には理解できても、生産性や、遺伝子を拡大するという利己的遺伝子論にそっても合理性を欠いています。子供が親を失い喪に服した場合はそのリスクはもっと上がるでしょう。
なぜこのようなことが起こるのでしょうう。
古い脳と新しい脳のコンフリクト(衝突) 高い樹に登る子猫
これは、古い脳と新しい脳の引き継ぎの問題から起こります。梯子をおろされた人、登って降りられない猫問題が起きます。
悲しみのベースとなる悲嘆反応の核は古い脳、すなわち猿を含む動物にある機能です。ところが、この悲しみ対する対象は、恋人、家族、友人などは新しい脳(主に前頭葉、皮質)が作り出したイメージを多分に含みます。物語としての人生、アイデンティティなどの抽象的な概念も含みます。
辺縁系の愛着反応や、軽い悲嘆反応はこれらの人間らしいもの、人間が高度な社会性を維持するために必要なものを維持するときには非常にポジティブに働きます。当初からかるい悲嘆反応があれば、我々は悲しみに対する準備ができますが、人間社会は高度に発展し悲しみは少なくなっています。ポジティブなものを積み上げることは快感を伴い好循環を繰り返し天井をつくまでたかくそびえます。
このときの我々は、高い樹に本能のまま登る子猫なのです。
ところがいざ、それが破綻したとたん、積み上げたものに対する否定反応が起きます。元々は失うことがないように作られた古い脳の機能が発揮され、悲しむように指令をだします。情報処理の量が多ければ悲嘆反応は長引きます。この情報の量は記憶の量と質です。質は感情の記憶で左右されます。
悲嘆反応中は過去の記憶の処理が開始されます。失ったものにはもう頼れないので、頼らずに生きていくためにこの処理が必要なのは理解できあます。過去の記憶を繰り返し思い出し、なぜ失ったのか、失った後どうすればいいのか、再び失わないためにはどうすればいいのかといった情報処理が脳のなかで行われ、新しい体験とともに統合されていきます。
あなたが右足を失いました。悲しくなります。今後は右足なしでやっていかなければなりません。むかし右足があったころの記憶が否応に思い出されます。義肢をつくったけどやはり本物ではありません。それでも、リハビリや訓練を積み重ねていくうちに新しい生活になれてきて悲しみも段々とうすれ始めてきました。
こうやってみると悲しみは非常に合理的です。
そもそも古い脳は、ジェンガ並みの低い積み重ねを慎重にするようにするように想定されたものです。体を失わず、母から離れないというシンプルな目的のためです。スカイツリーなみの認知の積み重ねを想定しデザインされていないのです。
あの人がいなければ自分ではない。あの人が自分を変えてくれた。たくさんの思い出たち、やってくれたこと、やってあげたこと、いないことによってかわる生活と未来。基本的なその日暮らしの生活である。
また人間はほかの動物に比べ圧倒的に子育ての期間がながく、つがいでいる期間も非常に長いです。また、社会の発達に対しDNAの変化がまったく追いついていません。
過去の記憶、未来のイメージも同様でこれは新しい脳に作られたイメージになります。この記憶やイメージを簡単にかえられる人間はいないでしょう。
そのために、そもそも生存のためにある悲嘆反応が生命を脅かす結果になり、引きこもりや、体力の減少など不利益が出るようになれば悪循環に陥ります。
悲嘆反応は記憶、認知、アイデンティティと内向きに悪循環がおき、この段階で人は身動きがとれなくなります。ワーキングメモリーは膨大な情報の処理に終われ、自律神経はつねにオーバーフロー状態となり、認知不協和が改善できなければ、外にでるのも危ないのでうつ状態となり食欲も減ります。昼夜問わず情報の内向きの処理に追われます。
そもそも自身が積み上げた幻影に対し、古い脳が悲しむように司令を送り続けます。これは、認知の修正、新しい経験、悲しみ自体の鈍化によってようやく終わりを告げます。
循環としての悲しみと癒し
悲しみとは、ポジティブな言い方をすればこれは大切なものを積み上げた結果です。
ネガティブな言い方をすれば、いつかくる別れの準備もせずに欲望のままに行動した結果だとも言えます。
循環的にも悲しみを見てみましょう。
人間は社会的動物であり、環境を調整し、肉体を拡張する生き物です。体の感覚の延長として、また、自らを守る為に本能で自身に愛着の機能があり、その愛着の対象を自らの生存システム全体に広げることができます。
そして情報は、その中を活発に巡ります。巡りながらDNAの拡散、生命の維持などの物理的な現象をコントロールしていきます。ところが、その情報の流れの一部が滞ると、システム自体が危機的な状況に陥ります。この時は非常事態です。腕を一つ無くすのと、パートナーを亡くすのはそう言った意味で大きくかわりません。とすると、コロナで政府が非常事態宣言をしたように、肉体も非常事態宣言をしないといけません。
これが悲しみと抑うつの機能だと言えます。
悲しみを癒やすとは、悲しみを知ること
では悲しみを癒やすとはなんでしょうか?
こうやって俯瞰してみると悲しみを癒やすことが重要ではないことに気付かされます。
悲しみとは生きていく為に与えられた機能です。つまり、悲しみを抱え生きていくのが人間として自然な姿です。親が死んでも食休みとはよくいったもので、悲しみよりも大事なことは一杯ある。悲しみとは生きる為の機能でありますし、そう受け止める方が建設的だと思います。生きるために悲しむのであり、悲しみのために生きる事をやめることは、不合理な考えだと思います。
大事なのは悲しみを消すことよりも、悲しみそのものを知る行為です。自分が失ったことの大きさを知る事です。
生きる事を継続するために悲しみがある。
それを知る事そのものが、悲しみを癒やすという行為なのです。
ウインドリバーという名作映画があります。先住民達の居留地の治安の問題を扱った映画で、かなり重い映画です。
ラストのあたりで娘を不条理な状況で亡くした男に同じく娘を不条理な状況でなくした男がカウンセラーに言われた言葉を伝えます。
いい知らせと悪い知らせがある
悪い知らせは君がーー決して元には戻れないこと
娘の死を埋められるものなどどこにもない
いい知らせは事実を受け入れ苦しめば…娘と心の中で会えること
娘がくれた愛も喜びも覚えていられる
悲しみをなくすと言うことは大事なものを忘れるということなのです。
心の疲れを癒やす。
心の疲れとはなにか。これは、じつは細胞レベルでは良くはわかっていないのではと思います。マクロ視点では、経験的にこうすれば疲労がとれるし、こうなれば疲れるということから、推察してますが。人類は本質をつかめてていないです。 その時、細胞でなにが起きているのかわかっていないです。三つにわけて考えましょう。
- 1)筋肉(特に平滑筋の疲れ) と体の疲れ
- 2)脳などの中枢神経の疲れ
- 3)循環を中心とした心の疲れ
1)筋肉の疲れ
これは研究室レベルでは乳酸がたまる事によって疲労が起こると言われていました。最近では否定されています。
重大な疑問があります。心臓も筋肉なんですが、心臓は疲れないんです。
筋肉には三種類、意志に基づいて体を動かす骨格筋、消化管など意志に関係無い平滑筋、そして心筋です。骨格筋には疲れはあります。筋肉痛や疲労ですね。 平滑筋にもあるけど、意識にはのぼりません。 心筋に至っては、疲労の概念がないです。 つまり、疲労とは”筋肉が疲れたからでる”のではなく”そのサインが必要だからだす”ということに気がつきます。 骨格筋は環境依存性の細胞です。必要となれば肥大し不必要なら縮小していく。氷河期や、寒冷地を生き延びた人間に備わった機能です。そのために想定以上の動きをすることもあり、想定以上の動きをしたときに、筋肉を痛めやすく、その結果として”疲労”のサインをだしそれを脳が感知します。
これはわかりやすいですね。 つまり、筋肉的にいえば疲労とは本質的には赤信号なのです。
平滑筋の疲れは普段は意識に登ることはありません。自律神経は基本的に”オートモードです” 人間が過酷な状況になっても耐えられるように、信号機そのものが隠されているようなものです。基本的には環境依存で働いてくれていて、無理がきくようになっています。 ところが極端な状況になると内臓や平滑筋にダメージがあっても無視して働くためにどこかで体にサインを送る必要があります。
ここからは仮説です。 自律神経失調症では交感神経過多の症状が出やすいです。一見不合理にみえますが、これは体がだした”曖昧な赤信号”ではないかと思います。氷河期や飢饉、肉食獣との戦闘では生き延びるか死なので、大きなリスクをとらないといけません。中枢神経の機能は限界があるのである程度オートモードで頼り、平和な時になったときに回復をすればいい。
ところが、多くの人は自らが見いだした、農業と経済システムの奴隷で基本的には常にマックスで働かないといけないという壮大な勘違いをしていることもありそのため常にリスクをとりながら働くというとうことをしがちです。そうなると思い込みから無理をしがちになるのだと思います。 心臓に疲労が少ないのは、基本的には同じ動きで環境に依存することがすくないために小さな赤信号がいらないのでしょう。大きい赤信号ならありますけど。
2)脳の疲れ
正直これはさらに難しいです。仮説はあります。まずは睡眠の効果から考えて見ましょう。
前出の体のダメージをとるという機能はわかりやすく本質的です。
みなさんが壮大に勘違いしているのは、寝ている間も脳は働いているということです。 これが心にかんする大きな勘違いです。 睡眠とは意識が落ちているだけの状態であって、実は脳は動いています。これは外界との刺激をシャットアウトして、自律神経系との刺激の循環をシャットアウトしているだけなのです。 古い脳はじつは常に動き続け、記憶に至ってもレム睡眠中には活発に想起されます。脳波をみてみるとわかりやすいです。脳波はフラットになることはなく、大きくゆっくりとした脳波が観測され続けます。
次に中枢神経細胞の疲労を考えて見ましょう。わかりやすい仮説としてはスーパーオキサイドによる細胞障害の仮説です。同じ事を考え続けると同じ細胞が電気信号を送るために活発に活動を続けます。細胞はヘモグロビンから酸素をうけとり、栄養と化学反応を起こし、二酸化炭素に変換します。 この際、活性酸素(正確には、過酸化水素、スーパーオキシド)が一定数発生します。活性水素は塩酸が皮膚について溶かすように細胞にダメージを与えます。これにより、脳が正常の働きができなくなり機能低下を疲労として認識するのです。 これは強迫性障害といって同じ事を考えてしまう病気の方で重症の方の脳は長年の経過を追うと小さくなってしまうことが観察されており非常にふに腑に落ちる仮説です。 睡眠の項目でもまたあとで追加するのでそこで詳しく述べますが、ここでコントロールしないといけないのは、「体のダメージを回復させる」「同じ考えをしないようにする」というポイントです。 うつ病や認知症、アルコールの後遺症では脳のダメージが常にある状態です。他覚的に眠ってはいても、トータルで脳のダメージが残っている場合は、この熟眠感が障害されることになります。 ところが、体のダメージを抜けたあとでも寝続けるのはリスクを伴います。 基本的な血流は心臓によって行われますが、体の運動で送られる血流も重大な要素ですし、同じ姿勢をとり続けることで血栓症のリスクもあります。 精神科では過眠症という病気があります。過眠症では生産性は落ちますしこのあたりは冷静に判断できればいいですが、睡眠にどうしても拘ってしまうひともいます。体の休息と心の休息をわけて考えられると良いかなと思います。
3) 心の疲れ
ここでは心の疲れは脳の疲れと別にしています。それは私の考え方では心は情報のながれそのものであるので、連続性があるからです。 これは脳のダメージを抜けばいいわけではないです。 川に例えて考えて見ましょう。 川の水が澄んでいるのは自浄作用があるからです。 この自浄作用は川の流れがあるという前提であり、いまめの前にある川の機能そのものではなく、 空気が清浄なこと 大地の濾過機能が正常なこと 流れ込む汚染が少ないことの要素があります。そしてもう一つはアウトプットの抜けの問題もあります。 汚い水が貯まりすぎていないかという問題です。 つまり、癒しというのはマクロ的にみると全体的な問題とも言えます。曖昧な表現ですが。この流れと循環をよくすると心に流れる情報がすんできて、心にたまったネガティブな要素が減ってきます。このことは再三、このブログで紹介していきます。
トラウマ(ただし軽度に限る)を癒やす
これはセンシティブな問題を抱えています。なので、軽度のトラウマにだけ焦点をあてます。重度のトラウマについては別に稿をもうけます。大事なことだから繰り返しです。ここでは軽度のものの話です。
トラウマってなんでしょう? 強い感情をもった記憶です。記憶というのはパソコンで言えばデータです。なぜデータに傷つけられるのか。
これで思うのはコンピューターウイルスのですね。コンピューターウイルスの仕組みはいくつかありますが、
古典的コンピューターウイルスはメモリ上やハードディスク上で自己増殖するという仕組みで、その結果、パソコンが擬似的に動かなくなるという結果です。
トラウマの問題はこれと似ていて、
1)記憶の想起がコントロールできない。
2)強い感情の再現性がある。
という前提条件を満たした場合に、前頭葉機能と記憶回路の循環が繰り返し行われ、外界との正常な循環が機能不全に陥った場合に全体的に機能不全に陥ります。
似たような問題で発達障害のフラッシュバックの問題があり、強い感情を伴った記憶が突然思い出されて辛くなることが多いです。
これが強いと圧倒されてなにもできなくなったり八つ当たりするんですね。
その問題を「こころの傷」みたいなふわっとした言葉で考えるから、本質をみることができない。
もともとは大自然や危険な肉食獣相手に生活していた人間の機能で、崖からおちたり、肉食獣に殺されそうになったあとで、いくら腹減っているからといって再度崖や狩りに行かせないための機能です。
それが現代生活ではバグって(不幸にも)非常に稀に起きる辛い記憶で、まわりからみると当たり前のことができなくなって機能不全に陥ったようにみえる。
交通事故のトラウマで考えると 昔は崖行くな、栗ひろえ、肉はやめろ葉っぱたべろですんだ問題が、いや車ってどこにでもあるし、テレビのなかにもあるし、無人島にでもいけって? って極端な話になってしまう。
つまり記憶との強力な循環が全体の循環を滞らせていると考えると問題の解決は。
1)記憶を物理的に消す。
2)記憶をソフト的に消す。
3)全体の機能を調整し、循環の滞りを改善させる。
という選択肢になります。
この辺は別の項でもうけますが。
この記憶をソフト的に消すとうい部分に働くのが癒しとも言えます。
癒しは海馬体ににあり?
人間の短期記憶の貯蔵庫は海馬体にあると言われています。この海馬体を刺激すると忘却がすすすむという研究結果がでています。
https://www.waseda.jp/inst/weekly/academics/2015/04/01/31281/
じゃあ、逆算で海馬体を刺激するにはどうしたらいいでしょうか。
一番お手軽なのが、視覚刺激で様々に移り変わる景色や、専門的なことを言えばEMDRなどが効果があるのはそのためだとは思います。作業療法の理論が有効なのも納得です。
失恋の記憶を癒やすために旅にでるというのも合理的なやりかたですね。海馬を刺激するために上野発の夜行列車にのって連絡線にのるってのも非常に合理的な選択です。
エターナルサンシャインという大好きな映画があって、あの映画みたいに忘却を機械でやる未来がいつかくるかもしれません。
でも、人間性という言う意味で考えると事象の連続性がないと人は神秘性を保てないので、ちょっと難しいかもしれませんが、認知不協和を神秘性で誤魔化しているんですけど