04 曖昧な用語について 

04d キラキラすること、マウンティング 社会的な動物

うつとキラキラ

 うつになった女性の話を聞いていき深めていくと、経過のなかで「キラキラしたい」という欲求がぴょこんとでてきます。でもそれが思いのほか力強いことに気がつくときがあります。落ち込むパターンや気分の変動のパターンがあると”自分がキラキラしていない”と考えた瞬間に落ち込むというパターンの方は結構居ます。
 

男のかっこつけとは違う

 私は男性なので感覚的には”格好つける”という感覚がぴったりなんですが、思春期を過ぎたあたりからこの感覚が減ってきたし自分のなかでプライオリティが低くなり続けているので感覚的には理解できません。これは社会を見渡しても、格好つけたいという男性は加齢とともに減りますが、女性は比較的減っていかないという現象は周知の通りです。
 でも臨床で見続けているとやはり重要な問題ではないかと思います。というのも”人と比べてしまう”という要素はうつ病などの病気を中心としても悪循環の一因となるからです。

キラキラを言語化してみる


 女性のキラキラしたいという欲求を観察し言語化すると以下のようになります。

  1. 自分で自分を好きになりたい。
  2. 他の同性から魅力的(綺麗で)だと思われたい。
  3. ヒエラルキーのなかで底辺に居たくない。
  4. 誰かに愛されていたい。


この4つの欲求が複雑に入り交じった形で一言で表すと”キラキラしたい”ではないかと思います。
 (ざくっと一般論を言います。でも「人でそれは違う」という原則はもちろんわかってますよ。また、女性差別の意図も一切ないです。)
 

男性の格好つけたい気持ちで

 男性にもこれはあてはまりますが、バラバラになっています。自己完結して気がつかない場合も多い。こんな曖昧な形でなく、マウンティングも、年収や、仕事や、学歴でわかりやすいし仕事では縦で順序立てる場合もあります。

  1. 自分で自分を好きになりたい。関しては個々人の問題で そもそも関心が薄い場合があります。世の中(政治とか外国人)が悪いって言い出す場合も多いです。
  2. 他の同性から魅力的(綺麗で)だと思われたい。これに関しては重要視されず、トロフィーワイフで順位をあらそったり、魅力的であるとずっと勘違いしつづけたり(機会損失のためにバイアスがかかりつづける)する。
  3. ヒエラルキーのなかで底辺に居たくない。命令系統でわかりやすく曖昧さがなく悩むのは最初だけです。辛いですけどね。嫌だったら群れからでるだけです。男性はトップになることに夢中になる傾向が強いです。
  4. 誰かに愛されていたい。これがこじれて、嫌われる事で代償的になる人も多いです。そもそも周りをみわたしても、ほんと情けない状態でとどまっている人も多く、愛されるための努力を放棄することも多いです。この問題より、世界を嫌いになったみたいな人はいます。

 若い子にオッサンと思われても、ビールと野球があればまあなんとかって感じです。(あくまでざくっとしたイメージですよ) 個人差がすごくあるのですべて当てはまるわけではないですが、ドラマ等で描かれるステレオタイプの中年像といえば、上記のようなイメージです。知人や臨床でも上記のようなところはあります。
 

女性のキラキラしたいを深掘りすると 

 

  • 自分で自分を好きになりたい。2~4)が前提でそうでなければ好きになれない。
  • 他の同性から魅力的(綺麗で)だと思われたい。年齢相応という枠組みを維持しつつも(若作りはアウト)隙がばれると減点で、またそれなりに流行を知っていないといけない。
  • ヒエラルキーのなかで底辺に居たくない。仕事をバリバリやっているだけでは順位付けされず、夫、子供、家柄、持ち物、センス、キャリア、友人ありとあらゆるものでランキングをつけその総合順位なのでパラメーターが複雑です。しかもみんな底辺だけは避けたいと思うから、トップをつくるというより、”底辺をいかに作るか”という力動が生まれ減点方式になりさらに過酷さをまします。
  • 誰かに愛されていたい。1~3)と複雑に絡み合い4)で3)のヒエラルキーが決まるから心のなかから男性のトロフィーワイフみたいなわかりやすい”綺麗で若い”みたいな単純なパラメータでなくそのトロフィー自体も複雑なパラメーター「年収、役職、身だしなみ、礼儀正しさなど品、家事育児への参加、そつのなさ、嫁姑への対応、子育てへの参加、教育、甲斐性、女性への理解」をもち、それこそ犬のコンテストなみや最近のポケモンなみの複雑なパラメーターで順位が決まります。


 この4つに絡み合ったパラメータを私は”キラキラパラメーター”と呼ぶことにします。
 男性からみると、なぜにそんな過酷な修羅の道をいくのかわからないですし、女性からみると原っぱで野球やってるところからまったく動かない男が馬鹿にみえるでしょうね。

 そもそもとして、人と比べることはうつ病の入口です。なのでキラキラパラメーターに拘るのは合理的でないのですがなぜ、このようなことになったのでしょう? 本当に大事なことなので根っこから考えていきましょう。

人間は少数の子供をなし、群れをなす動物である。

 群れを作る事のメリットは圧倒的で生体系の頂点にいなければ、群れることの優位性は疑う余地がありません。
 生物が自身の子孫を残す戦略は大きく二つあって、合わせてr-K戦略と呼ばれています。沢山の子供を作るのをr戦略。個体そのものの成熟度をあげて生存確率をあげるのがK戦略です。
 哺乳類でもネズミはr戦略、猿はK戦略となります。
 遺伝子的にそう収束したあとでさらに全体としての生存確率があがるのが群れとしての戦略です。 

 餌が十分あると考えられる場合、群れというのは正しい戦略です。草食動物や温かい地方だとそうですね。ところが北極など餌が乏しい地域や、淡水(海とは違って餌が少ない)、また肉食動物(単価の栄養はたかいけど機会が少ない)だと群れない方が合理的になります。
 人間は子供を産むのは少数精鋭のK戦略でありますが、遺伝子的には多様である群れを選択した社会的動物でもあります。
 社会的動物で蟻のように単一遺伝子の(蟻の群れはすべてクローンです)r戦略をとる動物は、その命令系統と役割分担も遺伝子レベルで決められています。文化的な差異は殆どないです。
 ところがK戦略をとり、また社会生をもつに至った動物、特に猿などは遺伝子レベルで決められた部分と、環境に左右される部分とその命令系統は多様性を持ちます。

 一見この少数の子供で群れををなすというのは合理的な選択に思えますが、内部の争いの火種を抱えているという問題があります。上手く行っているときは全く問題ないけど気候不良で去年より食べ物が少ないときに問題になります。競争となりますが、強者生存となった場合に、弱者である子供が問題となります。強者から餌を食べられると必然的に弱者である子供に御飯がいかなくなり群れとして致命的な欠陥を抱えます。

ニホンザルの群れ 母のヒエラルキーのシビアさ

 ニホンザルの群れの観察でメスは動かないがオスは群れを動くそうです。これは遺伝子を動かし多様性を生み出すためには非常に合理的です。食料がなくなった場合でもよそに行けば、なんとかなるかもしれません。
https://www.toho-u.ac.jp/sci/bio/column/0822.html
 メスは家系でほ順位が決まるそうです。つまり、母の順位が子供の順位です。ここで私の疑問は、そもそも家系の順ってどうやって決めたの?です。おそらく猿にしかわからない順番の付け方なんでしょうか?

 ニホンザルの雄は比較的わかりやす群れに長く居ると順位があがります。でも長く居れば交尾できるわけでもないらしく、それは興味深いなと思います。

 想像としては、このときにヒエラルキーの下のほうから見捨てることで群れとして子供を守るという選択をしていると考えると遺伝子の面からは合理的な判断です。
 

 もしかすると猿も”キラキラパラメーター”のような複雑な因子でヒエラルキーをきめているかもしれません。

平和な時は分け合い、有事には子供を守る為に差別をする。

 次に人間を見てみましょう。

人間がプロフィールと顔が一致し脳内で整理できるのは平均50人ぐらいまでそうなのでそのくらいの群れの単位でいっていたのかなと想像してます。
 狩猟民族を観察すると基本的にはとれたものは分け合っていたそうです。ところが問題は食べ物が少なくなったときです。猿の場合は、ヒエラルキー=餌の順番です。
 この順位性がなければ、餌が十分ないとき群れのなかで争いが起きてしまいます。もし、餌が十分無いという状況のなかで争いが起きると子供が弱いのでまっさきにターゲットになるリスクが起きます。すると遺伝子を増やし育むといった進化論的にみれば猿の群れは子供を見殺しにせざるをえません。トータルでは残酷ですがヒエラルキーがあったほうが遺伝子プールとしては優秀だと言えます。

 

キラキラパラメータは上を決める為ではない。下を決める為のもの

 サルの様に考えると、男は簡単に群れをでてよそのグループに行けば表面上は解決できます。子供を抱えていないので。場合によってはヒエラルキーを変えるためのチャレンジができるかもしれません。

 男性(オス)はトップを決めるゲームに夢中になれます。トップになれば遺伝子的には有利ですし、そこで負けたら群れをでれば良いだけです。

 ところが、女性は子供を抱えているか妊娠している可能性がある場合、よそのグループにいってもまったく解決になりません。そこでもヒエラルキーが一番下から始まることになりリスクは根本的解決にならないからです。集団で子育てする場合は群れを出る事自体が大きなリスクです。

 すなわち女性(メス)にとってはトップをとることは子供を生かすという意味では底辺にならないことよりもメリットが小さいのです。そのため、底辺にならないゲームをせざるを得ないんです。ありとあらゆるファクターを利用してグループのなかで底辺を作っておかなければ自身の子供にリスクがおよびます。同時にありとあらゆる要素をつかい自身を底辺から脱出させます。そこにわかりやすさなど必要ありません。底辺になった人間はいずれ消える可能性が高く、トップの人間は小数なのでわかりやすい基準で維持する必要がありますが、底辺は数が多く、常に複数必要だからです。

 頂点を維持するのと底辺を維持するのではまったくゲームが違いパラメーターは複雑化します。

 つまり多くの男性が感覚的に理解していないのはキラキラパラメーターや女性のマウンティングは上をきめるための戦いでなく、下を決める戦いなのです。

 

食料と差別の歴史

 さてこの食料が十分に供給できるるようになったのはいつでしょう。 ホモサピエンスのの生息区域の移転は次の通りです。

  1. 草原
  2. 氷河期
  3. 農耕の開始(農耕革命)
  4. 工業革命

 人間がプロフィールと顔が一致し脳内で整理できるのは平均50人ぐらいまでそうなのでそのくらいの群れの単位でいっていたのかなと想像してます。原始的な狩猟採集民であると、環境の収納能力に依存するので振る舞いはおそらく野生の猿と同じだったはずです。しかし、氷河期はおそらくかなりシビアでこのヒエラルキーに頼らなければいけない場面があったでしょう。

 農耕の開始で一見楽になったようにみえますが、これはそもそも合った問題を大規模にしただけでした。上手く行っているスパンが長期になったので、大規模の飢饉がくると戦争が繰り返し起こるようになります。戦争の度に大規模なヒエラルキーが構築され続けてきました。

 工業革命では貧富の差が開き、ますます酷くなります。民主主義革命などがなければそのままだったでしょう。最終的には、日本では第二次世界大戦の前後で無数の餓死者がでました。多くが戦争参加者ですがつい最近なのです。上記のように革命をへて食糧不足の問題は徐々に改善しましたがとにも書くにも3世代ぐらいには餓死はあったのです。


 俯瞰して考えて見ると、女性がキラキラしなくてすんだ時代はほぼなく、我が子の生存確率を上げるためにキラキラせざるを得ない時代のほうが長かったのです。

 ヒエラルキーを決めてしまうのは、不穏な状況下では種の遺伝子プールを残すという観点では倫理的にはどうであれ合理的に思えます。平和な時代にそれが残っているのはなぜなのかは遺伝子レベルなのか、それとも習慣や文化として残っているのかすべては仮説です。このあたりは色々な意見を聞きたいところです。

 ただわかるのは我が子の為にキラキラしなければ、御飯が回ってこないとすると必死になるというその気持ちは理解できそうな気がしますし、そのために必死になっていると考えると私も人の子なので胸をうちます。

 価値観は大きくかわり、戦争も長らく起こっておらず、飢え死にする明日を想像できず、団栗をたべる猿とは大きく違っています。子供を産まない選択肢をする家族もふえ、このまま平和が続けば父系社会から母系社会になるでしょう。そもそも離婚が増えその後、母が引き取ること自体、母の家にDNAが続いていくということになり、本質的にサルの様に母系社会に近づくことなのだとも言えます。

(浮気がいいことだとは一言もいってませんよ)

(そもそもボスザルの概念も閉鎖的な動物園の概念だそうです) 

(確証はもてませんが、このへんが、子あり子なしで起こるヒエラルキーの微妙な変化とも関わっているのではとも思います)

本当にそれでいいのか?

 このゲームにも循環があります。これは繰り返すうちに洗練され、拡大し、複雑になりすでに元型はとどめていません。時間をかけて遺伝子と文化に刻み込まれます。女性は家をまもり男性は旅にでる物語は今や女性がみずからを生き生きと世の中に発信する物語となっています。

 ただ、自らの生存確率を上げたいがために始まったことがその始まりは忘れ去られ今では、固定観念として親からひきつがれSNSでという形でも花開いています。 


 合理的でないにしろ自分の母親が子供の生存率をあげるためにキラキラしようとしているのは、胸をうちます。 

 しかし、メンタルヘルスの面でいうと人と比べたり、過度な承認欲求は精神のバランスを崩す結果となります。子供を家で抱え込むことがより少なくなり、飢える事がなく、そんな時代にはキラキラすることを追い求めない人と比べることをやめるという選択肢ももっていいのではないでしょうか?
 

 未来のことは誰にもわかりませんし、大規模飢饉や、戦争がまたあるかもしれません。でも、時にはこの平和な今をありのままの自分で素肌に日の光を浴びるような気持ちで生きてみてもいいいのではないかと私は思います。

 めしべは花粉を待つしかできないです。でも、風がふかなくとも、ミツバチがこなくとも花は花として美しいものです。月は太陽の光がなければ輝きませんが、新月はきっと満点の星空を楽しんでいるでしょう。

 グルグルとまわる遺伝子の物語から一歩おりて、まずはこの美しい世界をありのまま眺めてはいかがでしょうか? 

  • この記事を書いた人

モジャクマシャギー

 アラフォーの精神科勤務医です。自分の外来や診療が円滑になり、利用者さんの治療がスムーズになることを目標にブログを書き始めました。   ですが、いろんな方にもみてもらってやくにたてたら嬉しいです。  病棟業務を中心に児童から認知症、最近はインターネットゲーム依存まで幅広くみています

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