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01 心の循環理論

01A)こころとはなにか? こころの循環モデル

 要約

  • 心のコントロールには循環モデルでとらえることが大事である。
  • 循環モデルとはインプット→精神→アウトプット→外界→インプット(戻る)という一連の流れの動的モデルである。
  • 脳が変わる事が本質でなくこの流れを変えることが本質である。

精神科医のファーストドロップ

 私の心の上流にある一滴。ファーストドロップ。

 ”心とはなにか?”


 小さい頃から、ずっとある疑問です。医者になって精神科医になって、臨床を続けているのもこのシンプルな疑問です。
 なぜ、友達と喧嘩してしまうのか?
 なぜ、みんな同じといいながら差別をするのか?
 人を笑い、人を好きになり、嫌いになるこの心。
 苦しみと喜びを生むこの心。
 家の前の道路の真ん中に立ち、この道がどこまで続いているのか想像を巡らし、星をみて未来に対する願いごとを繰り返す心。  
 臨床を通じて、小説や本を通じて、この疑問をずっと考えてきました。なんなら今も考えています。 

心の最小単位 

ブラックボックスモデル


まずは人の心とは何かこれを極端すぎるぐらい単純に考えましょう。
体を動かす精神、いろんな人がいろんなことを言ってます。シンプルに考えると三つの要素からなっています。

 A→B→Cです。極端すぎますね。
もっと足しましょう。
 インプット→処理→アウトプット  です。
 これが心の最小単位となります。ブラックスモデルです。ホワイトボックスというのもありますが心は外からみえないのでブラックスボックスモデルですよね。
 

これが心の最小単位です。
以上と言ってもすごい不親切なのでもうちょっと説明を足しましょう。

世界が百人の村で99人が松岡修造だったら。


 多くの人が心を神聖してます。 自分の意思が弱くて鬱病になる。頑張りが足りないからお金を稼げていない。自分は心が汚いからこんな目に会うんだ。
 魂、前世、運命、宿命、愛そう言ったものを否定するつもりはないんですが時々このシンプルな事実
”心とは刺激に反応するブラックスボックスである”
と言う事実を人は忘れている気がします。シンプルに考えた時に心とは刺激に対する反応がベースであるといえます。
 これはすごく大事なことです。
 なぜかと言うと、精神科の治療を考えた場合に、インプットをいかにコントロールするかが精神科の治療として非常に重要だからです。別に精神科の治療だけじゃないですよね。人が変化する為にはインプットを変える必要があります。
 多くの人がカウンセリングを魔法のように感じています。カウンセリングはたしかに有用ですが魔法ではなく理屈があります。 
 例えばポジティブになりたい人がいるとして5千円払って受けるのと時間のコストを度外しすることにはなりますが。5日間、図書館にこもってポジティブな本を読みまくるのではどっちがいいでしょうか? 難しいですよね。いつも僕は外来でこう言う例えをします。
 松岡修造が99人いる島で暮らしたら人は変わる。それを科学的に効率よく突き詰めたのが精神療法なんです。 
 再三言いますが、心は豊かです。それは巨大な樹を見上げるような気持ちになります。でもこと治療の入口はシンプルです

 「私は良くなりますか」と聞かれます。私は必ずかわれると言います。それは心の最小のモデルを上記のように考えているからです。
インプットをコントロールすれば人は変われます。これは本当に救われる事実じゃないでしょうか?

 しかし、ここで賢い人なら気がついたかもしれません。”人間の意志の力を使ってインプットをコントロールすること”って無理じゃないのか?

 人間の意志の力をつかってコントロールできるのは基本はアウトプットです。そうなんです。つまり、人が変わるというインプットはコントロールできず、アウトプットだけがコントロールできるということは「人は自らの意志でかわれない」ということになります。これはいわゆる運命論的で未来は変えられないということになります。はっきり言いますがそうではないです。だからこれは本質的ではないと思います。

心のありか? 心臓に心はないのか? 

水槽に浮かんだ脳。

 哲学者バーナムの有名な問いに「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢なのではないか」「コンピュータに繋がった水槽に浮かんだ脳が見ている現実と自分との違いはないって言う意味です。
 映画ではマトリックスがそうでしたね
 人口知能と人間の区別はなにかというと、これの答えは実は簡単で“連続性“です。以下に説明していきます。

 


 高校の頃にマクドナルドで友人が「心はどこにある」と問いかけました。

 脳科学とかニュートンなどの科学雑誌とか読んで科学かぶれだった私は心はどこにあるかと言う問いに「脳」と即答してました。
 友達が「本当に」と聞くので「脳が死んだら死ぬ」と答えました。「心臓が死んでも死ぬでしょ」「脳死だったらじゃあ生かすの」「脳は交換できないじゃん」うろ覚えですがこんな話をしてました。
 あの時私は自信満々でしたが、今では友人のほうが正しいと思います。

 友達がいうことももっともで、腕がなくなったら心は変わってしまうんですよ。心臓を人工心臓にしても心は変わる。
 あれ?って思いました。

 次にSFなどのフィクションで僕はサイバーパンクというジャンルが好きなんですが、人工知能と人間の違いについての映画が大好きでなんどもみてしまいます。ゲームだと”デトロイト ビカムヒューマン”というゲームが有名です。 
 有名なのは攻殻機動隊です。もう何回もリブートしてますね。私は押井守の初期のやつが一番好きです。

 リブートされる度にビルから飛び降りるお約束というか様式美は続けて欲しいです。

 このゲームも最初はビルのペントハウスから始まります。

 


 SFではよくある疑問で脳の状態をシュミレート(模倣、真似)できる機械をつくってそれに自分の意識をまるまるコピーしたらそれは同じ心かと言う疑問です。
 ここで前提がかわります。
 同じと考えられるか、同じと考えられないか?
 if 心が脳にあるなら 心は同じ心。

 でも違うな。というのが最初の疑問です。だって、そうやってコピーとられた瞬間、心の有り様は変わってしまいますよね。


 

 海はどこからが海か?

 プラネテスという漫画 本当に名作なんですがインディアンの老人が空の境目はどこかと聞きます? 主人公の友人は指差しますが違うとここも空だと。
 海はどっからどこまで海かわかりますか?
 次にじゃあ海を構成するものは?
 空がなくなったら海は海でいられるでしょうか?雨が降らなければ? 地面がなかったら?


 全ての物事は関係性と連続性のなかでつながっています。仏教で言うと生々流転ですね。全ては繋がっているんです。もちろん繋がってない事象もあると思います。ところが5感で感じることしかできないとういう連続性のなかでしか人は認知できないので正確には”人が認知できる事象には連続性がある”ということが正しいです。

 雨も陸も海を構成する一部だとも言えます。

 人とのこころというのは、川のほとりにある美しい森です。川の水が、木をはぐくみ、動物たちを潤し、植物や生態系を支えます。その中にも水が循環しまた生死が明滅している。川がにごったり、よどんだり、森自身の問題で森が病んだ時にどうするか?

 本質的に考えるなら森そのものでなくこの水の循環を意識しないといけないし、森の境界はあいまいで連続性にさらされている。そうかんがえると本質的な解決方法が可能になります。


 心の循環モデル

 先程のモデルに一つ加えると環境→刺激→心→反応→環境→以下続く。


 環境と心は連続性を持ちます。結論を言えば心とは脳にあるわけではありません。この連続性を指します。
 ここが精神科の面白いところで内科や外科とは一線を隠すとこです。
 今なら友人に心のありかを聞かれたら全てに心があると答えますね。
 静的にとらえると、心の本質を見失ってしまうのです。この動的なモデルこそが心の本質なのです。
 この連続性がないので水槽の上の心は我々がもつ心とは違うといえるのです。 

脳を変えることだけが治療ではない。例えば家族との関係を変えれば症状が変わる

 静的なモデルでとらえると”インプットをコントロールし脳を変えること”に主眼が移ります。

 これは 医者→患者 薬→患者 みたいな一方通行の考え方です。医者→脳、薬→脳といってもいい。

”大脳生理学を極めれば心のコントロールは完璧になるのか?”という命題がおきます。答えは否です。なぜなら動的に心を捉えないと本質を見失うからです。精神科の病の多くは神経系の問題だけでなく、この循環の相互作用が滞っている場合が多いからです。

 「心頭滅却すれば火もまた涼し」気の持ちようで感じ方が変わるといいます。これは確かにそうです。意識を変えればインプットを変えられるという人がいます。でもこれは自分で自分をコントロールしているのでしょうか?人に自分をコントロールされているのでしょうか?

 そもそもその概念自体がそとからやってくるし、自分が我慢できていることをどうやって知るのでしょうか?

 つまり、インプット自体は人はコントロールが難しいのです。インプットの”解釈”はコントロールできます。野球でバッターだった場合、どんなボールが来るのかはコントロールできません。ボールがうてるのかうてないのかと考えるのはあなた次第です。サッカーでキーパーだった場合もそうです。その解釈はコントロールできてもインプットそのものは困難なのです。

 しかし、アウトプットは違います。何をはなし、なにをリアクションをするのか、どんな言葉をかけ、何処にいくのかこれはコントロールできます。循環的に考えると自分をコントロールするということはアウトプットをコントロールし、最終的にインプットをコントロールするいうことになります。 

 統合失調症の人に先生どうしたら治りますかと聞かれます。いくつものアドバイスがありますが、私は良くお母様を大事にしなさいと言います。家族を大事にしているかたの予後は本当にいいのです。
 鬱病の人にも聞かれます。奥さんや家族を大事にしなさいと。これも同じように予後が全く違います。
 これは心とは環境との連続性だからです。シナプスを水と例えると一滴の水が織りなす環境とのフラクタル(複雑系)を描く相互作用だからです。

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 脳を変えれば治ると思っている人が多いです。その為に家族を犠牲にしてしまうケースも多々あります。でも、心を大事にするということは本当に当たり前のことですが、自分がいる環境を大事にすることとおんなじなのです。
 発達障害で引きこもっている方などによく簡単な家事の宿題を出します。これはいくつもの効果があります。能力の査定、行動のルーチン化、自己効力感の増大、そして生活が楽になって、家族が楽になることです。家族が楽になれば当然本人にさけるコストやリソースが増えます。結果的には自分のためになるのです。それだけではなく、物を捨てたり片付けをするだけでも症状が軽減する場合もあります。


 本当に信頼できる人を一人見つけれたら病気が変わる。


 統合失調症は本当に辛い病気で被害的な幻聴や妄想は人生そのものを壊していきます。 
 でも、妄想を否定してくれる人がいてその人を完全に信じられたら、妄想に左右されない人生を送れます。まあそれが難しいのですがこの事実は統合失調症の家族を抱える人には一筋の希望ではないかと常々思います。
 この連続性は認知症でも重度精神遅滞の方でも一緒です。
 人は2回死にます。一つは心臓が止まった時、最後は忘れ去られた時です。これはエコーや波紋のように連続性が残っているのです。波打ち際の波は遥か遠くの風の記憶であるように、人が生きたということは長いこと繋がりを残します。
 重度の認知症だからと言って安楽死が推奨されないのはこの連続性の中に心があるからこそ簡単には決められないのではないのでしょうか。
 私は魂は信じないのですが、この連続性を考えた時に死の恐怖や病気の不安が少し減ります。一滴の水が海に溶け込むような雄大な気持ちにほんの少しなれるのです。

炎である心、水である心 

mind-rondo model

 この心が環境に影響をあたえ、心が環境に規定されていく状態そのものを心であると定義し、その概念を私は密かに”心の循環モデル” かっこよくいえばmind-rondo modelにしました。直訳すると精神の輪舞モデルですね。
 この概念こそが、私を救ってくれた概念です。
 最初にブラックボックスモデルを提示しました。でもそれだけではなにかがおかしい。ブラックボックスモデルだと「心臓に心はない」ってことになります。でも心臓をとられたら心は動かないです。心臓を機械にしたら、はたして心は同じままでいられるのでしょうか? 家族がいなくなったら心が死ぬという人は多いですよね。そういう比喩表現も民族問わずたくさんあります。

火のような心


 昔、私の認識だと心はたき火のようなものでした。ベルセルクという漫画の一シーンに主人公のガッツが一人で鷹の団という傭兵集団が夜の宴会でかがり火を無数にたいてしみじみと話すシーンがあります。死んだ母親の腹より生まれて虐待され傭兵達に搾取され続け剣だけが救いだった主人公ガッツは剣と剣が打ち鳴らす火花に自分の人生を重ね合わせていました。でもこのシーンではかがり火が人の心でみなそれを持ち寄って大きな火にしようとしていると話します。
 私もそう考えていました。
 生まれ育った実家で自分のことや受験のことで悩んだ時、小学校のころに遠足でいった山の中腹の公園に夕暮れの時にいっていました。本当に小さな町なので、ぽつりぽつりと明かりがつく。その明かりの下にはそれぞれ人がいて自分と同じようにいろんな悩みを抱えて生きている。そう考えるとすごい楽になりました。
 私の生存の本質は脳にある。脳は細胞の塊で電気刺激に過ぎないが、炎のように美しい。薪をくべ続ける間は美しく燃えるが薪がなくなれば死にいたる。
 そんな風に認識していました。

水のような心


 大河の一滴という名著があります。 
 内容は読んでいただければとは思いますが、その骨子はタイトルに現れています。
 我々個々人の存在そのものは大河の中の一滴にしか過ぎない。そう考えると楽になるよ。って本です。
 元々は仏教の考え方、諸行無常、一切空、地獄は一定といった考え方がベースになっていると思うのですが、このタイトルに優しさが入っていると思います。自分は世の中の大河に溶けている水なんだと思うと気持ちが楽になります。この本が売れたのがそういう人が多かったという証なのではないかと思います。
 ただ、水と考えても炎と考えても、循環はしているのですよね。その考え方はベースのなのですが最終ゴールが治療なので、”だとはいっても””だからこそ”が大事です。


 じゃあ、水と炎をどうコントロールしていくのかってことが、循環的にみることだと考えたのです。
 もう一つ書籍を紹介します。これもかつてベストセラーだった本です。”唯脳論”です。養老孟司が提唱した考え方で、文化伝統、社会制度、言語というものは脳の構造とリンクしておりビル、道路、埋め立て、などの人工物は脳の構造や仕組みが反映されているという考え方です。 この考え方は非常に興味深いし賛成するのですが、自然と人間、人工物は循環し規定しあっているというのが心の循環モデルの概念です。
 次節に続きます。

 

踊る心 明滅する生死 変化する肉体

 

 生死を繰り返す細胞達

 あなたの血管を流れる血の寿命はどのくらいあるかご存じでしょうか? 血の赤さのもとの酸素を運ぶ赤血球は120日、白血球は数日から数時間、出血をとめる血小板はす10日です。

 タンパク質にも寿命があります。
http://www.jmi.or.jp/qanda/bunrui4/q_062.html
心を司る神経はどうでしょうか? 末梢神経の再生はもうすぐ実用レベルですよね。中枢神経にいたってはターンオーバーはないといわれています。
しかし、脳の支持細胞はターンオーバーと再生があります。

 DNAですら実は変わっていた。

 DNAは変わらないという言説も少しだけかわりました。 DNAの後天的修飾です。人間の設計図は基本的に変わらないけれども、設計図にも様々なパーツが分かれていて、どのバーツを決めるのかは後天的に決まるって考え方です。”エピジェネティクス”で検索するとたくさんでてくると思います。
 利用者さんによく聞かれることがあります。
「私はよくなりますか」です。
 一つわかっていることがあります。これは不変の真理だと思います。“よくもわるくも人の心は変わっていく”"かわらないものはない”ということです。もちろん変わりにくいもの、変わりやすいものあると思います。  

 かわらないものなどないのでは?

 心を循環モデルとして捉えると、心は静的ではなく、動的なモデルということができます。脳の中は変えられないとしても住む場所は変えられる。住む場所は変えられなくても付き合う友人は変えられる。それもむりなら、読む本や習慣は変えることができる。携帯のアプリを変える。通勤コースを変える。これはすごく流動的です。話し方を変えると考え方が変わる。時代が変われば考え方が変わる。考え方が変われば時代が変わる。
 循環モデルそのものが心と定義すれば変わらないこころはなくなります。

 そう考えるとすごく簡単な様に思えるのですが、”心の病がバランスをとっている”場合があります。これは疾病論で後述します。

 なぜこれが心を楽にするか?

 

 仏教の概念とは違うのか?

 このブログをまとめながら自分にも変化が起きてきました。基本的にはいままで診療で感じてきたことや、こう考えたりしたことをまとめているんですが、ネットや本を調べてもあまり同じようなことをいっている人はいないんですね。概念自体は簡単でしっくりくるし、すごく心を楽にしてくれる概念なんです。似たような概念では仏教の彼我、物我一体の境地に近い概念なんですがそんな高尚な感じでもないんですよね。ゴールは似ているようで違うし、なんかニュアンスが違うというか。心のコントロールといだけでなく環境のコントロールを以下に分析してパッケージしてコントロールするって話なので。

 自然>人間  自然<人間  自然<人工物<人間

  考えをまとめてくるうちにこれは、今まで起こった人間の情報革命やこれから生命技術の革新に対する考えのような気がしました。 心というのは今までは自然vs人間のなかでコントラストができ作られた概念です。 自然というコントロールできないものをコントロールして生き延びて拡大するという命題のなかで洗練されていきました。宗教の発達もこの構図をぬきにしてはかたれません。ところがこの構図はもはや人間側の圧倒的勝利(?! 勝ったわけではないですがね)です。自然を殺すのも生かすのももはやホモサピエンス(現生人類 我々のことです)の胸先三寸です。自然界には平らな部分はほとんどないです。ところが人間界は平なところばかりしかないですね。そもそも自然は怖いって今や災害のときぐらいしか皆さん感じないのじゃないですか。 人間vs人間の作り出したものという構図で心が洗練されていっており、そのなかで常識と普通が作り出されています。

 心を変えた情報革命

もう一つは、心の機能の大部分を変わってもらえる、電算システムと情報革命の存在です。情報の資本を脳に蓄えなくてもアクセスできる。本にすらしなくてもいい。    

 心の境界はあいまいになるのも当然だと思います。 友人を選ぶことも簡単で、情報格差はなくなり本屋をさがさなくてもいい。どんなマニアックな情報も検索で一発です。

 心の働きによって環境をコントロールできなかったが今はあまりにも簡単なんです。というか心が生み出したものしか私たちのまわりにはありません。そして周りに存在するものはほぼほぼ人の思惑でコントロール可能です。とすると、心のありようによって好循環も悪循環も簡単に起きてしまいます。  

 その結果、昔はなかった”心の病”がつぎつぎとできてくる。  するとのぞむと望まらず、”環境そのものをパッケージングしてコントロールすることが心の健康につながる”という状況が生まれる。  でも、みなダウンロードするアプリ、登録するチャンネルによって心がどのように変化するか俯瞰できていない。  経済活動は投資と投機を国際規模にならざるをえず活動は心や概念を規定してしまう。合わすことができない人間を次々と駆逐していく。

リバイアサンはもはや、クトゥルフですよ。

  この仕組みを俯瞰してみることができなければ、この流れに飲み込まれる人もでてくる。外来に来る人たちは、この状態を俯瞰してみることができていないようにみえる。自分がわるいのでもない、世界が悪いのでもない。この循環こそが状況をかえているのにです。じゃあ、どうしたら”簡単”に”低コスト”で”私個人の利益にもなって”間違いのない形で伝えることができるのかと考えたたが、外来は今本当に人数が多くて時間がとれないだからブログにしよう。という風に書きながら言語化しました。 まあ、ここでかく前提条件も、生命革命がくれば壊されると思うのですけどね。

 経済学者の父トマスホッブズはかつて、人間とは国家がない自然状態になれば必ず万人の万人に対する闘争状態になる。それを防止するためには国家という化け物=リバイアサンが必要であると述べました。ですら、国家ですら争い、情報は国境を越え、ネットの諍いは止むことなく、不況はより大きく、もっと大きな化け物のようです。それはまるでホラーでラグクラフトの創生した”コズミックホラー”クトゥルフ神話にでてくるような、わけがわからない化け物の支配下にあるようです。そんなホラーな状況かで正気を保つにはやはり自分の心の状態をある程度俯瞰できることが必要になってきます。

 そんな状況ですが、人は楽になりたいと願うなら必ず楽になれる道がある。そう信じて話を続けていきます。

まとめ

  • 心をブラックボックスモデル(インプット→精神→アウトプット)でとらえると理解が十分でなくコントロールができない。
  • 心を循環モデル(インプット→精神→アウトプット→外界→インプットに戻る)でとらえるとコントロールができるようになる。
  • 脳を変えることは治療の一面に過ぎず、その流れを整えることがよりこころをかえることである。
  • テクロノジーの進化により循環モデルでとらえることが重要になり、容易になった。しかし、同時に世界規模の情報の流れに飲み込まれる状態もありその渦はもはやコントロールできない。
  • この記事を書いた人

モジャクマシャギー

 アラフォーの精神科勤務医です。自分の外来や診療が円滑になり、利用者さんの治療がスムーズになることを目標にブログを書き始めました。   ですが、いろんな方にもみてもらってやくにたてたら嬉しいです。  病棟業務を中心に児童から認知症、最近はインターネットゲーム依存まで幅広くみています

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