このカテゴリーではストレス、カウンセリング、癒しというなじみは深いけど言葉の定義がもやっとしていることを書いていきます。
ままいうても言葉の定義の問題なので別に目くじらをたてるほどでもないんですが、なんかいつも本質的な問題はどこにあるのかと考えて話を聞いてきて、曖昧な言葉がくるといつももやっとしてしまいます。具体的に考えて具体的に行動することが具体的な結果を得るみちだと思うので、曖昧だといつも気持ちが悪いです。
このもやっとした気持ちを書いていきます。
でも、書いていくとこの曖昧な部分に”人がもつバイアス”(認知上の偏り)が隠れていてここを掘り下げるのは非常に治療的な行為だと思えるようになりました。
例えば、うつ病に頑張るといっちゃいけないといいますが、頑張るという文言がその人にとって負担になるという前提が必要なのでこれもふわっとしていてあいまいなんですね。
そもそもみんなと同じように頑張った結果みなと違う状態になったから、個別で考える必要があるのに。みんなと同じようにした結果、違う状態になったけど、みんなと同じようにするためになるようにしたらどうするかって。なんだかもやっとしますよね。確かに、「休むのをがんばって」とはいいますけど、休めない人にむけて言うのであって過度な一般化バイアスはどうかなと思います。
転んだ人間に「走って追いつけ!」っていっている見たいなもんですよね。集団を一つの生き物みたいにするには必要だと思いますけど。学校や軍隊、会社でそれを要求されるのはまあ仕方がない側面もあると思いますが、私達の人生=集団ではなく、そんな時代でもないので、知恵を絞ってだましだましお迎えがくるまでやっていくしかないですよね。
ものごとが曖昧であるというのはメリットもあります。
みながみんな複雑性のなかから逆算で悪くさせるパターンを認識できるわけではなく、だからこそ我々みたいなプロがお金をもらうってことももちろんわかってはいるんですが、ふわっと曖昧に考える事はすごく手軽で単純なんですけど、思い込みの入口でもあって、可能な限り具体的で個別性を大事にして考えて欲しいなと思います。
資本主義社会においては色々な文言が、利益を勝ち取るために曖昧にしているというのもすごく見え透きます。結局、最大多数につたわる言葉は曖昧にせざるを得ないの仕方がないのですが。
「日本人でみんなひとくくりにしたがりますよね」って言動とか頭痛が痛いって感じです。
まあ何にしろ、曖昧な問題を具体的に考えることがないと効率的な解決は難しいです。山に登るのに「北東にむかえ」ではなく「3度の方向で○○を目印に3.4km直進」の指示のほうが明確で効率がいいように精神科の方針も具体的なほうがいいような気がします。
そういった思いをもって、曖昧な言葉に潜むバイアスやぼんやりとした形をより本質的な考察へとできたらいいなと思います。