精神科医ならあるあるじゃないかと思うんですけど、カウンセリングをしている最中に「先生、この人(子)にカウンセリングを受けさせたいんですけど」と言われることがあります。現時点では言語的なアプローチが難しく刺激をさけたほうがいいという判断をし説明したあとで「カウンセリングで癒やすしかないと思っています」とか言われることがあります。配偶者や親が多いですね。 いや、今やっているつもりでしたと心のなかで突っ込んでます。
認知行動療法の宿題の答えを聞いた後で、「この人に認知行動療法はやってもらえませんか」とも言われたこともあります。
利用者さんを責めているつもりはなく説明不足のこっちが悪いのであくまでジョークです。もうしわけないなと思っています。知らないとわからないですよね。
「さあ、いまからカウンセリングですよ、良ーいドン」みたいな感じでわかりやすくできればいいんですけど。
ただ、そういった言葉の端々や世の中の雰囲気をみるかぎり、”カウンセリング”という言葉がなんらかの特別な魔法として一人歩きしているような感じに思えます。
カウンセリングとは魔法なんでしょうか? 外科の手術のような特別な手技なのでしょうか?
カウンセリングっぽい記号
とはいってもカウンセリングっぽい記号はあります。これは暗示でもあります。
分析の長椅子。カウンセラーのトーンを落としたいつもとは違う声。心理面談室と書かれたドアの表札、「それではカウンセリングを始めます」などのルーティン化されたやりとり。さあ、今から始めますよ。あなたは洗いざらい話してください! みたいな記号の数々。これがあったほうがいいんですかね。 でもこれは結局暗示に頼っているだけ本質的な解決ではないんです。
それはカウンセリング、精神療法の定義と本質のためです。
カウンセリング 精神療法の定義
私的な定義をいうと
精神療法の本質は”人と人とは影響し合い変えていく(かわらざるをえない)”という現象を利用し「利用者が自ら問題を解決していくための変化を起こす」ということです。カウンセラーはコーチとして選手である利用者の変容をリードしていきます。
これを低コスト、短時間、高効率、低リスクでやれるのがプロがプロとしてお金をもらえる根拠だと思います。
カウンセリングは魔法でなく手品
精神科では便宜上、心理師がやるのをカウンセリング。医師は診察ということが多いですね。
まあ、商売であるが故に、魔法みたいな宣伝文句をいっているのは確かにこっち側であるとは思うんですがね。魔法ではないですが、手品レベルのカウンセリングはあります。でも、種も仕掛けもあります。
文献をあたると美しいカウンセリングも確かにあります。そういう治療をやりたいと思ってはいるんですよ。変化に10工程かかる部分を1行程でやるようなエレガントなカウンセリングは確かにあるんです。
カウンセリングの本質を理解してもらえばさらに治療が円滑になる。
このブログを立ち上げた理由の一つですけど、仕事が立て込んでいるとやっぱり具合が悪い人優先にしてしまうし(スタッフが困っている症例になりますから)外来で一時間待ちの状況だとやっぱりいろいろはしょり始めますし、新患3ヶ月待ちはさすがにと思う。
ならばカウンセリングの本質を理解してもらって自ら解決に導くってことも大事じゃないかなと思うんです。だからあえて言うんですけど、カウンセリングは魔法ではないです。手品です。
プロにまかせっきりでも短時間で解決できるかもしれない。でも協力態勢でやればもっと短時間でできるし、生活そのものに治療の構造をいれこめばもっとよりよい人生がすごせる。
精神科も医者も完璧ではない。
これをいうと精神科を秘密結社みたいに思われている方々に燃料を投下して狂喜乱舞するのがみえるようであまり言いたくないのですが、(また、仲間達の短所をいっているようで本当に歯切れがわるくなるのもすみません。)自由に報酬を決定できる弁護士などと違い、精神科は健康保険制度に強力に縛られているので、成功報酬というものがなく、基本はかかった過程にコストがかかっています。これ自体は治療のゴールである「患者自らが自分の脚で立てる」と矛盾してます。ゴールと報酬が違うので歪んだ関係であるとは言えます。
なにが言いたいかというと精神科と利用者が依存関係になるリスクを潜在的に後押しし、腕のいい医者ほど儲からなくなる可能性があります。
性善説を信じたいですが、精神科では悲しい事件があったのも事実です。ネットの発達により光があたりどんどん変化はしています。昔は悪事は三里を走るといいましたが、今は「悪事、光ファイバーで地球を一秒に7周半する」時代ですし、私の周りには良心的な医者ばかりなのでそんなことは本当になく安心してもらいたいのが半分ですが、もう半分は精神科自体は人を救うための完璧な道具ではないということをやはり考える必要があります。
ただ、口を大にして言いたいのは、医者が悪で金儲けしか考えていないからだというわけでないということです。
歴史上圧倒的弱者であった人々を導くためにマッチョでならないといけなかった時代はたしかにあり、しかし時代はかわりかつては利用しなかった人々も精神科を利用すれば人生が楽になると思い始めそれにあわせて精神科も変わっていっているということです。
また精神科全体の問題もあるが、個々の問題もあり、全体の問題を個々の問題にあてはめるのも個々の問題を全体にあてはめるのも合理的な態度ではないと思います。
いや、この辺の問題は正味一介の精神科医がとやかくいえることではないのですが、個人的な問題としていえば、私自身の判断も間違えることがあり、100%信頼し依存していいものではないのです。中には依存にたる医師もいるかもしれませんが。
問題を解決すること 問題を自ら解決することと問題を人に解決してもらうことは似ているようで違う。
ここは非常に大事で、私の治療の最終ゴールはあくまで個人の自立にあるので、精神科や心理のカウンセリングは他のカウンセラーの定義のように「問題の解決」そのものを目指すことは最良ではないです。ただこれは状況によって違い、切迫していればそんなのいってられません。
自分で考えて取捨選択できる状況ならばやはり自らが考え自らが選び取ることが最善です。医療にも選択肢がいくつもでてきて、魔法のような秘術だったものは情報革命でつまびらかにされている時代です。
大前提として人に迷惑を掛けていない、障害に進行が見られないという状況が必要ですが、思考そのものを障害する精神科ではなかなか内科や外科のようにいかないものの、これだけ軽傷例が増え、軽傷の段階で情報にアクセスできるようになれば医者が決めて医者の言うとおりにする時代は終わりを迎えつつあるのだと思います。
同じ地獄なら自分で選んだ地獄にいく
仏教的な考え方ですが、基本的に世の中は地獄で虚無です。たまたま我々は先人達の知恵の結晶の上にアグラをかいて座っているだけなので世の中は平和で世界に肯定されているようにみえますが、一皮むけばそこには混沌と虚無が待っています。
極端な話をいうと結局世の中は、苦しみに満ちています。 だけど自分で選んだ地獄なら人は耐えられるのです。
カウンセリングという言葉の魔法はとけつつあるのですが、魔法が解けた後に現れるのは、精神科の治療というものの本質です。それは人が自ら道を切り開く冒険小説のような美しさである。そう思うのは私だけでしょうか?