01 心の循環理論 03 疾病理論

気分と感情をコントロールする。

気分を理解する

 うつ病の治療の話になるまえに気分というものを理解しておきましょう。気分には快、不快、疲労、爽快感、その場の雰囲気とあります。感情まで幅を広げると、不安 恐怖 嫌悪など7種類に分ける見方と27種類あるという研究もあるようです。 気分と感情と対比するとわかりやすいです。感情は喜怒哀楽に代表されるように、対人にむけて洗練された物です。それにくらべて気分とは自分に対してあるものです。行動を規定し、テンポを規定し、新しい事をやるか、避けるかを規定し、慎重にやるか、大胆にやるかを規定する。家にいるか、出るかを規定し、戦うか逃げるかを規定する。恋人を受け入れるか拒否するかを規定していく。

 それが気分の機能です。

 動物にも気分があるかという疑問なんですが、私はあると考えています。湖を歩いていると湖畔の倒木の影にブラックバスがじっとしているのをみたことがあります。よくみると怪我をしている。すぐ側を通ってもまったく動こうとしない。葉っぱを落とす。動かない。石を落とそうか考えたのですが、かわいそうになってやめました。 また虐待の犬や猫も、繊細になったり、じっとしていたり、虐待されてないそれらとくらべて落ち込んでいるようにみえる時があります。おそらくにたような機能はあるのだと思います。

 気分の落ち込みの能力がなぜあるのかという仮説ですが、おそらく、ネガティブな環境に対する適応の結果だと思います。

 怪我や悪天候、周囲に肉食獣の台頭してきている、また年単位、数十年単位の気候変動に対応するために、活動性を抑制し、身を守るために神経過敏にし、夜も眠れなくなり、食事もとらなくてすむように発展したと思われます。それが氷河期をへてうつ病のような状態を作り出すスイッチを作り出し、他の動物にはない自殺、死にたくなるような状態までもっていく機能がDNAレベルで刻まれたのだと思います。

 じゃあ、逆に快気分とはなんのためにあるのでしょうか?

 まず第一に、悪天候のあとの好天になるべくはやく食べ物を集める必要があること、食物は基本的に一斉に実をつけるので、短期間であつめる必要があること、動物などの採取も大型のものはなるべく急いで食べないといけないことという食べ物が安定供給されてない事情に対応するためです。

 もう一つは繁殖のためです。

 哺乳類にとって繁殖は個々の生存だけみると、かなりリスキーな行為で最初から最後までその後も、特に母の方の生存を脅かします。動けなくなるのに食事の量はかなり必要になるし、出産にも命の危険性がある。出産直後も赤子はほっておくとすぐに死ぬので、人の手が必要だしリスクばかりです。 理性的に考えるとリスクしかない行為をすすめるのが情愛の機能ですが、男女の仲にはムード(気分)が必要なように、これも気分の機能の一つです。 集団としてみた場合、躁うつ病のような人がいると全体としての生存機能にはプラスに働きます。リスクがあるときには、食べなくなってくれるし、チャンスの時には、新しい狩り場をみつけ植物をとってきてくれるし、倫理的な問題は横においてみると繁殖にもプラスになります。その為に、遺伝子として生き延びたと考えられます。

 次に感情が無い状態を考えて見ましょう。

感情を理解する

感情を構成するいくつかのパーツ 

 感情を司る機能はおおむね三つに分かれています。

  • 刺激を受け内的に感情が発生すること
  • 刺激をうけ外的に感情が表れること
  • 感情を言語化する

それぞれみていきましょう。

刺激を受け内的に感情が発生すること

 これはおそらく多くの動物に備わった機能です。内的におこった曖昧な感情は動物の行動を規定し、方向性を決定付けます。これは生存、繁殖多くのものに示唆(英語のサジェストがぴったりくる気がします)をあたえ、多くの選択肢から一つの行動を瞬時に選ばせます。ロジカルに考えると時間がかかる問題を感情に沿って決定付けます。

 そう考えると感情の基本となる機能は”無数の選択肢の中から論理性に頼らず短時間で取捨選択する機能”とも言えます。逆の言い方をすると”外界に無数の選択肢がある場合で短時間では論理的な結論が出せない場合に起こる行動の選択のための機能”と言えます。

 こう考えると、感情の非合理性および合理性が非常に明確になります。

  • 選択肢が多く時間がかかる   論理<感情
  • 選択肢が少ない時間がかからない 論理>感情

 こう考えるとASD(自閉症スペクトラム)傾向の人が、選択に困るということがより明確になります。外界の刺激に対して情動反応が極端な人々は好きなものに対しては極端に判断能力が高いのですが、関心が薄い物に対しては判断が極端に遅くなる。また、他者の会話について情動反応や感情理解の機能が低い場合には、ロジカルによっていない会話の判断ができません。でもできないわけでなく知的に非常にたかい自閉傾向の人と話していると”選択肢が多すぎて選べない”という言い方をされます。

 こう考えると沢山の選択肢を選ぶのが躁状態で、選べない病がうつ病という見方ができます。

刺激をうけ外的に感情が表れること

 内面で感情がない場合と表現ができないのは全く別の問題です。 表現には表情や体の動き距離感などが含まれます。瞳孔の散種や微表情がこれに当たります。この場合の表出は反射によるものと反射によらないものがあります。この表現をまるでアスリートが体を動かすように表現するのが役者さんです。

 この感情の表出は行動選択だけでなく社会的意義を持ちます。親愛の情や嫌悪感は集団性を維持し繁殖をスムーズにし 怒りは余計な争いを避けることもあるでしょう。同情や共感などの表出もまた有用です。 

感情を言語化する

 これをわざわざあげるのは治療ではこの言語化が重要だからです。そもそも情緒的な解決と論理的な解決は別物で感情的な解決は、感情の言語化の力を使わねば難しいでしょう。お互い嫌悪感を持つ人間が理解し合えるには合理的な解決だけではどうしようもありません。家族や親友でありながら分かり合えていないことも多いのはみなさんご存知の通りです。情緒的な問題を論理的に解決するには言語化は必須であるといえます。 また同様に自分の感情に名前がなければそれを論理的に理解するのも難しいと思います。白色が名前がついて白になるように感情もまた名前がついて初めて客観的な認識が可能になります。

 感情の問題はだいたいこの三つに分類されます。

 それではどのように気分を人はコントロールしていけばいいのでしょうか?

循環理論で気分と感情をコントロールする。

 これをまた循環理論で考えて見ましょう。概要としては要因を四つにわけ、その後、全体を俯瞰してみましょう。

  • インプット
  • 情報処理
  • アウトプット
  • 外界 
  • 循環全体の問題

さらに細かくしましょう。

  • インプット
  • 感情を誘発するトリガー
  • 気分を構築するスライドボタン
  • 選べないと思い込んでいる情報
  • 情報処理
  • 偏った処理
  • 記憶との対峙
  • 未来の予測
  • 感情や気分がないと生きている実感がわからない問題
  • 感情と気分に偏って行動選択をする 論理で行動すること
  • 気分を誘発する要因がわからない
  • アウトプット
  • アウトプットをしなさすぎる
  • アウトプットをしすぎる
  • ずれてアウトプットをする
  • 外界 
  • 関係性を破壊する感情 関係性を構築する感情
  • 鏡のように感情を返す人々
  • 良いときばっかりは続かない、悪いときばっかりは続かない
  • 経済の渦 コマーシャルという病
  • 無数の比較対象
  • 選んでいるようで選べないインターネットの情報
  • SNSという感情の渦
  •  循環の問題
  • くりかえしが気分を作る。
  • 感情に振り回される地獄、感情がない地獄
  • ままならない自分や他者をうけいれられるか
  • 自家中毒のような感情
  • 正しい感情があるのか? 間違った感情があるのか?
  • 理解はあっても、正解はない。

インプット

感情を誘発するトリガー

 感情には必ずトリガーがあります。これは驚く程、個人差があり、かつ問題はそれを自覚できてないことが多いです。生活のスタイルが多様である現代的な様式ほど顕著な気がします。これはアンガーマネージメントで問題になります。

 怒りの感情のトリガーになるのは人様々で、動物的に考えると攻撃をされたと思う時に反撃のための感情ですが、同じ事をされても怒る人も怒らない人もいます。また空腹時や疲労時は怒りやすく、寒さ暑さもそうです。また、外的な因子だけでなく痛みなど内的な因子もトリガーとなります。

 喜びのトリガーも同様です。外来ではコントロールした感情がある場合、このトリガーと感情が発露する前提条件が必要になってきます。

 やっかいなのは”置き換え”で内的な因子によるイライラを外的な因子と錯覚しそれにたいして感情が発露することです。PMS(月経前症候群)などでイライラしているときに、パートナーに八つ当たりしてしまった経験やされた経験は多くの人が持っているのではないでしょうか。 

 フロイトは心に無意識があり、無意識からくる感情は意識における現象に”置き換え”がおきると考えていました。この置き換えはやっかいで感情を誘発したトリガーと感情が向かう先が違うということになるのでこのずれがポジティブな結果を生み出せばいいのですが、そうともいえないこともあるのでトリガーの理解は簡単なようで難しくまた、ここが理解できるだけで感情のコントロールでできるようになるひとも多々居ます。

気分を構築するスライドボタン

  感情はわかりやすいですが、気分はどうでしょう。気分は感情と違い長時間の発露が特徴なのでトリガーも繰り返しや長時間のものが多いです。なので拳銃のトリガーというよりは明るさや音量を調整するつまみ式のダイアルボタンやスライドボタンという表現がふさわしいです。

 もっというとエアコンやストーブのようで変化に時間がかかります。

気分を変える刺激でわかりやすいのは季節です。私自身も、曇りや雨の日、要するに太陽が射さない日が続くと気分の落ち込みを感じます。何となく体が重いなと思ったらそういえばここ数日天気が悪いなと気がついたりします。食事、睡眠(生活リズム)、人との会話、日向ぼっこ、運動などもわかりやすいボタンです。発達障害の方が、お金の管理ができないで食事の偏りがあり、引きこもりになり、外出せず次第にうつうつとしてきます。そういう方が入院すると薬を使わずに次第に元気になってきます。

 低血糖、貧血、高血糖、血圧体の病気が気分の引き金になることも多いです。栄養が偏っている場合もあると思います。

 そういったわかりやすいものから、恋愛をすること、恋愛がうまくいかないことなどもあります。これらは感情のトリガーとちがって繰り返しでおこり時間差があるのでなにによって気分がかわっているのか自覚がもてない場合も多く、わからないだけならまだましなのですが、理由をずれて認識している場合も多々あります。

 気分の目的は、リスクをとる行動をするかしないかの決定なので、このDNAがデザインされた時は、原因はおそらく自覚なしでも構わなかったのでしょう。

 多くの人が自分の気分を変える刺激を自覚していないことが多くこのコントロールの問題をやっかいなものにしています。

選べないと思い込んでいる情報

 循環理論ではアウトプットをコントロールしてインプットをコントロールすることで心をコントロールすることが考えの核心であるのですが、情報すなわちインプットは選べない、えり好みしてはならないといった態度の人もいると思います。

 例えば立場の弱い人間や、子供など経験がない人は確かにそうでしょう。

 しかし、そもそも情報とはなにかを考えたときに考えてもらいたいのですが、そもそも、カオスなのであってその中にあるフラクタルのパターンをみているだけで、虚無的で無限でカオスティクな情報の固まりから脳がその時の目的や方向性に応じて情報を取捨選択しているだけにすぎないのです。

 情報とはなにか?心とフラクタル、二体問題、三体問題、カオス

フラクタルと心 フラクタルは花

  原則として、情報を取捨選択できないのではなく、すでに生まれた時から選ばずをえないのに、この本質が理解出来ずに圧倒な情報の洪水のために受け身にならざると得ないから”インプットは選べない”と勘違いをしてしまいます。その結果、心をコントロールできずに気分や感情のコントロール感を失って仕舞います。

 このコントロールをするために、ある程度の知性が必要であることは否めません。しかし、理解はできなくとも人まねをすればある程度可能になるはずです。

 確かに、生まれた場所や皮膚や目の色は選べません。ところが、歩む道やみるもの聞く物は常にフィルターに掛けられ選ばれています。この事実に気がつかなければ同じ所をグルグル回ってしまいます。感情のコントロールが上手い方はこのあたりがすごく上手いと思っています。

情報処理

偏った処理

 これはそもそも、感情や気分自体が偏った処理のための機能なのでこれはしょうがないとしか言えません。問題は偏っているのに偏りがないと思ってしまう所です。

 感情は多くの場面で合理的な振る舞いをしますが、合理的でない場合もあります。ところが短いスパンで答えをださないといけなければどうしても人は感情を優先します。結果、自身に不利益が返ってきているのに、感情の解消や得ることが目標となっているので時に不合理な結果をもたらします。

 多くの場合、短時間での処理となるのでこの不合理性に気がつかない事も多く、そこもコントロールを困難にしています。

 これは怒りや不安などネガティブな環境に対するレスポンスが特に顕著でその結果あまり良くない結果をもたらす事もあります。

 感情自体に罪はなく、感情がなければ人は選択肢を選ぶ事ができないということを考えれば感情豊かというのはメリットが大きいのですが理性に伴う修正なしにはやはり厳しい物があります。

 また、世界に対する偏った見方もこの傾向を加速させますし、感情がその偏った見方をさらに加速させ悪循環が起きた時はもはや感情はコントロールを失います。熱も寒さも大事ですが、極端だと人を殺します。強すぎる感情はどれも毒になりえます。

 これは気分も同様で、気分によって行動が変わっているという自覚がなければ修正がしようがありません。また、環境に対して一致してないと気分が気分を強くするという結果になります。しかし、気分がなければ、リスク処理が一定になり、人類に気分が存在しなければ人類はこれほどまでに多様性を生み出す事は無かったでしょう。最悪、氷河期で絶滅していたはずなので大事なのは、気分によって自分は選択をかえているという認知になります。

記憶との対峙

 これは多くの記憶が感情と共に記録されているということから起こる不具合です。経験的にわかると思うんですが、強い感情をともなった記憶は定着しやすいです。これはポジティブな感情もネガティブな感情もそうです。

 強い感情が怒った時に、記憶の定着がすすむのは普段なら合理的で、処理が難しい記憶をいったん定着させあとで分析するのは生存のためには非常に大事なことで、探索をすすめたり、危険を分析することに役立ちます。ところが、ネガティブな記憶ばかりであったりすると記憶とともに強い感情が引き起こされて感情の自家中毒が起こります。これは内向きに起こる循環であり、この記憶らが分析されなかったり、もしくは歪な形で分析されれば不適応の引き金になります。のちのちトラウマのところでも書きますが、そもそもこれらは生存を手助けする機能です。

 再学習がなされなければそれは感情の貯蔵庫のようになります。

未来の予測

 人の未来の予測はポンコツです。 その未来に基づいて感情がでるなら、予測不能なもの期待できないものにたいし感情で選び、感情で反応することの困難さはいわずもがなです。しかし、未来のことを想像しなければ冬にそなえ夏に楽しむことすら難しいでしょう。この矛盾はつねに人を苦しめます。感情によって気分を選択し、気分によって未来を予想する。誰もがやっていることが心を苦しめる。それにすがらなければ混沌に対し生きることができない。この苦しみから逃れるためには、未来のことをは予想できないとはっきり認めることです。それでもなお未来に向けて歩むという生きる一滴の勇気が必要です。

感情や気分がないと生きている実感がわからない問題

 人には道しるべが必要です。でなければ道に迷ってしまいます。この道しるべを感情や気分にしているかたは大勢いると思います。喜びや悲しみ、不安や憎しみ。幸福や愛。人が感じる様々な感情を軸に人生の方向性を決める。この場合感情に頼らなければ生きていくことができません。それは我々を地球にとどめておく重力のようなものです。重力は我々を地面に縛り付けていますが、それがなければ一か所にとどまることすらできない。

 感情は我々を縛る鎖のようで、我々の形を作る殻のようなものです。これが感情をコントロールすることを難しくしています。

 はっきりとわかっていることは、鳥のように飛びたければ多くのものを捨てねばならないということです。人間の成熟が目的を達することにあるとするなら、あなたの生きたいところに応じて感情との付き合いかたを変えねばなりません。短期間に決めねばならないことは感情で決定すればいいのだと思います。でも、人生をかけた目標があるのならばその場合感情をコントロールすることは必須になりますし、それは自分の中に起こる感情を捨てるということでもあります。

 循環理論ではあなたは情報の器でしかありません。流れを規定する川のほとりなのです。強い感情がなければ虚無に流されるでしょう。でも、しっかりと目をひらき世界の流れを感じれば、けっして虚無だけが世界を支配しているわけではないことに気が付くでしょう。様々な感情が渦巻き星のように瞬き炎のように人をあたため、花のように美しくさく心もあることをしれば、あなた自身の感情に頼らなくても生きていくだけの力を感じとれるはずです。

 捨てることは何かを得ることなのです。鳥は体重を捨てたのではなく、空を飛ぶことを得たのです。

 感情をコントロールするということは、この情報の流れを知ること。すなわり自分を知り、世界を知るということです。

 でも、これはなにがいいという話ではありません。モグラと鳥とどちらが正しいのかを決めるのはナンセンスです。

 でもあなたが苦しみから逃れ、自分を変えたいと望むとき、生きたいと思う場所があるのならば、あなたは変わらなければならない。 感情と気分を知りそしてその流れを知らなければいけない。

 内向きの感情がなくても、世界に感情のようなものを感じられた時に楽になります。生きている実感が内向きにある間はおそらく苦しむでしょう。自分の感覚を拡大し世界の生き生きとした感覚を拡大すればこの問題は解決します。そうしたときに迷いはなくなると思います。

感情と気分に偏って行動選択をする 論理で行動すること

 本来ならばどちらも大事で、そうやって人は自分のことを修正していきます。感情=自分という強さがある場合、論理で行動することが難しい場合があります。選択肢は無数にあるはずなのに一つの行動しかできない。まわりからみるとなにかに縛られているようにも見えます。

 楽になりたいといいつつ、不安に縛られ自ら苦しい道を行く。人とうまくやっていきたいのに怒りに身をまかせ、自らを守るよようで自分の環境を傷つけてしまう。

 またロジカルに考えることができない人もいます。これは能力の差なのでしかたありません。この場合は人をまねるしかないのですが、環境を傷つけることを是とする場合、環境から学習するための好循環が起きにくいです。

 戦争ではどうかは知りませんが、人を傷つけるというのは自分を傷つけるとまったく同じことです。同様に自分を大事にしないということは周りを傷つけることです。 

気分を誘発する要因がわからない

 これも人は自分でわからないことが多い。感情は自分の身を振り返ればわかることが多いですけど、気分に関してはわからない。これは気分が、気分を変える要因の繰り返しか、複数の要因が合わさってかわることに起因しています。恋なんかはすごいわかりやすいですけどね。外来に来られる方は本当にわからない場合が多いです。わかっていても言葉にできなかったりする場合も援助は困難になります。わかるのならばコントロール方法は明確で要因をコントロールすればいい。

 じゃあ、これが分かるためにはどうすればいいかという問題になってきます。

 これは自分を知る 学習をするということが大事です。

 人生から学ぶことと、学ぶ能力について ~セカンド女子、不倫沼を考える。

 学習はでも結局は、心の循環の中で起こるので目的をもちアウトプットしていくことで変化していくなかで学習が生まれます。学習をせずとも、よりよく生きるということを誠実に繰り返すだけで気分=自分のことを知ることが理論上は可能です。

 その一連の流れで大事なのは”自分は自分の気分の原因がわからない”という素直な態度です。子供だったら母のせいにしたり大人だったら政治のせいにして、極端だと世の中すべてが悪いといった合理的でないずれた認識では、いつまでたっても問題解決になりません。そもそも単一の要因、原因で気分が固定することはほとんどなく複数の要因や繰り返しが原因となることが多いです。

 そもそも事象に対して気分が変わるとという機能は人間にとって大事な機能で”気分を変えればよい”という単純な問題でなく、”よりよく生きる”というプロセスに欠かせない問題です。

 自分は自分のことをそれほどよくわかっていないという態度は本当に大事になります。特に気分が落ち込んでいるときはそうですべてが不安になり、人を信じることができません。

 躁状態の時はその真逆で自分に自信がありすぎて、人の話が聞けなくなります。

 わからないことが問題なのではなく、わかってないということがわかってないのが問題だということになります。

アウトプット

 ここでいうアウトプットは書く話すなどの行動だけのことではありません。あなたの目の動き、耳の方向。あなたが選択するすべてのものです。どこにいくか、誰と過ごすか、どんな本を買うか、そのすべてが世界を変えていきます。

アウトプットをしなさすぎる

 わかっているけどやらない。これは気分が落ち込んでいる時は特にそうで行動を起こせません。正確には起こせないのでないのではなく順番がおかしい場合がほとんどです。

 休息→行動

 行動→休息 

さあ、みなさんどっちの順番が正しいでしょうか? 

 状況によるというのが正確なところです。

 疲れている→休息→仕事

 疲れていない→仕事→疲れた→休息

 疲れている場合は休息が先にくるのは当然ですね。ところが精神科にこられるかたのほとんどは、すべきにとらわれています。これを仕事にすると

 休息→仕事

 仕事→休息

の順ですが、うつ病やアルコール依存症、拒食症の人は

 疲れていない→すべき仕事を終わる→休息

 疲れている→すべき仕事をする→体が動かない自分が悪い→疲れる

という順でものごとをとらえています。休息のフェイズがない人も多いです。うつ病はアウトプットができない病気ととらえがちですが正確に言うとアウトプットがおかしくなる病気です。しかし、疲労がたまればアウトプットができなくなります。

 うつ病が進行していくと考えがすすまなくなります。これは疲労がたまった結果です。

 お酒を飲めばこのアウトプットがなくなるか、ずれてしまいます。

 過食や拒食にしても同様に本質的な問題を食事の問題にしてずらしているだけです。

 ここでいう本質的な問題は”気分のコントロールができない”という問題です。

 気分のコントロールをするというのは、環境を変えるアウトプットをしてインプットのリターンをもらうということです。その結果考え方や感じ方が変わっていきますが、これはあくまで副次的な産物で一時的には野球のピッチャー、サッカーの選手のようにアウトプットを狙った場所に行うということが大事です。休息がとれず気分が落ち込むなら、休息をとるためのアウトプットが必須になります。お酒を飲んでいてはアウトプットすらできないし、たくさん食べて、食べなくてもできないでしょう。そのできない問題がさらに気分の問題を深刻にしていきます。

 世界に対する恐怖心、不信感も同様です。身動きが取れなくなります。

 一粒の勇気が世界を変えることは本当にあるのです。

 アウトプットをしすぎる

 躁状態の時に問題になります。これは本質的には次のずれてアウトプットすると大きくはかわりません。ただ世界が相手なので世界と歩調があわなければ結局は意味がありません。急激な変化は時に、大きくずれをもたらします。焦ってやるのも同じです。 

ずれてアウトプットをする

  多くの問題がこれによるものです。心の循環理論では、大事なのは繰り返しで大それたことをやる必要はありません。走り幅跳びができなくても、歩けばいいし。壁をとんで乗り越えなくても階段を上るか梯子をかければいい。心を変えるには小さなことを繰り返しすればいいだけです。感情を理解するためには、小さな感情を理解しそれをコントロールすることができれば大きな感情をコントロールすることができる。ただ、それだけです。

 たき火をするなら小さな火でいい。料理しやすく、近づけて、長く火にあたれる。でも、人は大きな火を求める。そのように、欲望や期待、恐怖や不安、様々な思惑や、周りの雑音がその本質から遠ざけます。

 多くのずれたアウトプットはずれた認識のためです。言い換えると知らないからです。知らないというのは情報がないから。情報がないのは世界がそうだから。

 このようにずれた循環のなかでずれたままぐるぐると同じところを回り続けています。それはほんのちょっとのずれなんです。ずれたアウトプットをしていた場合、最初にやるべきことはずれたアウトプットをやめるということです。世界を見る、世界を知るということに集中することをまずするべきです。そのためのアウトプットに切り替える必要がある。

 世界は虚無の塊です。そこら中に地獄がポッカリ穴をあけている。そこに勇気を持つのは難しいでしょう。荒野を行くようなものです。でも崖からおち、道をはずれ満身創痍であっても、いつでも希望はあります。

 それは似たような道をいく先人たちがつけた足跡です。

 落ち込んだ人も、お酒におぼれた人も、傷つき人を信じられなくなった人は今までに何人もいました。精神医学に批判的な人は大勢いますがその本質は心を病む人の役に立ちたいという気持ちがそのコアにあります。情報をあつめ、分析し、試行錯誤した結果です。我々の知識は足跡なのです。

 文学や美術もそうです。悩み、本質をもとめ、苦悩したものです。

 悩むあなたは一人ではない。世界のどこかには同じような悩みをもつものがいて、歴史のなかでも同じように苦悩した先人たちがつけた足跡が無数にある。信じられる人が一人でもいたら、先人たちの足跡があればあなたはそのあとを行けばいい。 

 もちろん、その保証はどこにもありません。みつかるかもわからない。あなたと同じ悩みをもつものはいないかもしれない。探したとしても死屍累々で悲惨な人生を送った記録にうつるかもしれません。

 でも、助けをもとめ、足跡を探すべきです。それが無駄だったとしてもあなたがつけた足跡はきっと同じ悩みを持つ人々を勇気づけるでしょう。心の循環理論が提唱するのは、あなたの個人的な心のコントロールだけではないです。心はつながり影響しあい循環し、よい循環はもっと大きく壮大な循環を生み出します。

 あなたの苦悩が深いほどあなたの足跡も深いのです。

外界 

 ここでいう外界は様々なものを含みます。皮膚の外にあるものや食べ物など生活にかかわるもの、情報や思いやりなど無形のものです。様々なものが貴方の感情を煽り、感情を増幅させます。それらについて知らなければ流されてしまいます。人との感情の関わりは社会的動物としての人間には必須なもので貴いものでもありますが、感情と気分をコントロールすることを目的するには冷静にそれらを俯瞰しみる視点が必要になります。

 感情のコントロールに関係するもの臨床で感じた代表的なものをいくつかあげていきます。これだけでなく無数の出来事が貴方の感情と気分に影響を与えています。

関係性を破壊する感情 関係性を構築する感情

 関係性を怖す感情で代表的なのは怒りです。熊に襲われたり、悪人に襲われたりしたのならともかく、攻撃性に近いものがあるので怒りを投げられた石のように感じる人は多く、理解を示す人のほうが少ないのは当然です。不安や悲しみも時に人間関係を壊します。正しいかどうかはさておき、話しかけたりアドバイスをもらったときにネガティブな感情で返せば、人は距離を置くでしょう。ただ、それが悪いのでなく、同じものに怒りをいだくものは仲間になりやすいでしょうし、悲しみも同様です。感情は大事ですが、むけ方を誤れば大なものを破壊します。それはめぐりめぐって関係性を破壊してしまうでしょう。それらは巡り巡ってあなたが抱えている問題点をさらに複雑にする可能性もあるのです。

鏡のように感情を返す人々

 関係性があればいいというわけでなく、人と人は時に感情の増幅装置となります。一人で怒るよりも二人で怒るほうが感情が大きくなるでしょう。悲しみも同様です

 これが好循環になればいいのですが、悪循環になればそれから抜け出すのは難しいです。特に人に期待しすぎる依存関係にある場合には期待される感情が返ってこない場合には、ネガティブな感情が生まれるでしょう。世界があなたのためにあるのでもなく、あなたが世界のためにあるのではない。それらは連鎖しあいなにかを形つくり続けているのです。

良いときばっかりは続かない、悪いときばっかりは続かない

 ポジティブな感情、喜び、楽しみ、慈しみそういったものを可能な限り味わいたいという人は多いはずです。怒りや悲しみ憎しみが少ないほうがいいと思う人はいいはずです。でも、これらは永遠ではないです。世界の本質は流動性にありつねに変わり続けています。変わらない世界を作ろうとするのは今やフィクションの中の名だたる悪役たちです。

 同時に悪いときはいつまでも続きません。死という終わりがあっても命自体は紡がれていきます。愛も憎しみも終わりがあり、花もいつしか枯れます。

 本質的には感情は絶対的なコントロールは不可能です。刺激に対して人は反応せざるをえません。これはサーフィンをする波乗りが波をコントロールできないのと同じです。でも感情の乗り方は選べるし、乗る場所も選べる。すなわち相対的なコントロールか可能なのです。

 価値観は時に足のようで、そして牢獄でもあります。

 壁を一枚隔てて外に自由がある。でも、その壁自体は見方を変えればあなたをそとの風や寒さから守っているものでもある。

 それらはコインの裏表のようにみえて、でもただのコインなのです。この大いなる矛盾。我々はいつでも変わることはできるけれども、変わったとしても結局は大きく変わることはないという事実は我々を困惑させます。

 なにも知らない子供として生まれ、そして結局な世界のことをほとんど知らない老人として死ぬ。地球を一周しても宇宙を一周することはできない。宇宙を一周することができても、その外を自在に動くことなどかなわない。

 つねに物事は相対的で、流動的で終わりも始まりも認識ができない。

 この事実を苦しみとするか、喜びとするか。

 私の結論はどちらでもないです。それはただの事実であって、それを苦しむとするか喜びとするかは私が決めていいのだと思った瞬間、どっちもでもないと考えました。

 この事実を考えるとき、大きな山の山頂に立ち遠くをみるような気持になります。渚に打ち付ける波をみて、太平洋の島々を思うような気持になります。終わりと始まり、限界と自由は同じコインです。生と死もまったく同じで、それは感情もまったく同じなのです。

経済の渦 コマーシャルという病

 経済のことを抜きにして人のことは考えられません。口々に人々は”普通”なりたいといいます。普通とは何でしょう。誰か答えることができるでしょうか?自分をすり減らしながらする仕事とはなんでしょうか?釣り竿とナイフを一つもって人は旅にでてはいけないのでしょうか? 自殺をするまえになにかできるないのでしょうか?誰が普通を作って誰が普通にならねばならないと言っているのでしょう?

 お金やものや家や車や、携帯電話が我々を救うのでしょうか? 物が作られ、ものが売られ、人々は一時の現実逃避を得る。そしてお金がまわりお金を得、お金を失う。

 我々が作ったはずの巨大なこの川。それに生かされそれにすりつぶされていく。我々の可能性を縛る鎖であり、また大気圏外のような遠くに連れていく巨大な車輪。勝利と負けを規定する巨大な神と悪魔。奪うものと与えるものを規定するこの巨大な流れ。違和感を感じながらもこれに縛られ規定されていく。

 問題はこれから自由にならねばないないということです。昔の隠者のようにすべて捨てることができればいいのですが、土地のすべてに名札がある時代には逃れることはできません。距離をおいて付き合っていくぐらいのことしかできませんが、これを理由に死ぬほどのことでもないと正直思います。

 繰り返し流される広告は、マイノリティにとっては毒であってもお構いなしです。仕事では能力の差はおいていかれ同じような結果を求められがちです。そこに個別性はなくただただ圧倒されるほど大きな流れに乗ろうとする人々ばかりです。

 経済の存在そのものを否定するわけではないです。これは新しい天気のようなものです。太陽であり、雨雲であり嵐であります。これを知らなければ家を失い命を失うだけだということなのです。

 これらに感情を左右され、気分を左右される。その事実を知らなければただ、コントロールを失うということです。

無数の比較対象

 人と比べることは、気分を規定していきます。自分より恵まれている人が多いと辛くなるでしょうし、同じぐらいの人が多ければ安心し、下にみれる人がいると安心できるでしょう。比較すること人はやめることは難しいです。比較対象を選ぶことで感情をコントロールする人もいるでしょう。比較対象は無数にあります。年齢には幅があり、お金にも幅がある。年代時代、人種、性別、地域無数に存在しています。

 比べることやめなさいという人もいます。でもその人のその発言自体が。比較する人と比較しない人を比べている。

 普通になりたいといいなが実際は恵まれている人と比較している場合もある。

 私のおすすめは、可能なかぎり多くの人と自分を比べることです。100人といわず、1000人、一億人の人と自分を比べましょう。無数の人と結局は不安にしたがって思い込みで上下をつけていたことに気が付くはずです。少数の人と比べるから落ち込むのであって、大勢人とできるだけ比べるのはそれは知識に近いです。大勢の人とくらべることでいろいろ見えてくるものあると思います。

選んでいるようで選べないインターネット・テレビの情報

 薬に対する拒否感がある人にインターネットで得た情報を聞いたら、本当にものの見事にネガティブな情報ばかり拾ってきていてびっくりしました。インターネットは図書館でなく、大きな経済活動の端にあるので、お金の流れが大きい情報は大きくそうでもない情報は狭くなっていいます。また、感情的に大きな情報も同時に大きく、冷静な情報は小さいという特徴があります。インターネットがこれだけ発達しても紙媒体の情報やデジタルでも書籍の情報の大事さはみな同意するのではないでしょうか。

 感情にしがって無料系の情報を得ようとすると、基本的にはその感情を増幅するような情報ばかりを得る仕組みになっているとも言えます。これはテレビから得る情報はもっとその極端にでることがあり、結局は世界の経済活動の流れに沿うので、感情をコントロールするとは真反対の影響を受けやすいです。アルコール依存や摂食障害、インターネットゲーム依存の情報をお酒や、食事やダイエット食、ゲームのCMの合間に流せるはずがありません。何人死んで何人が人生を踏み外しても同様です。

 情報を選ぶときはその媒体や出所をしっかり考えなければなりません。

SNSという感情の渦

 SNSは便利なようで偏っています。これも大きな感情の増幅装置の側面があります。基本的には感情の増幅装置の側面が大きく、喜びを大きく、苦しみも大きくします。巨大な鏡のようなものです。SNSはネイティブではないので、これを捨てることができない気持ちは本質的には理解出来てません。同意を無数にもらうことの快感は理解できますし、人に承認されること、友人とつながり続けることの喜びも理解できます。

 商売をするものとしてはチャンスでもありますし、このブログもツイッターで実装してます。

 しかし、こと感情をコントロールすることについてはネガティブな側面もいなめません。孤独な人はより孤独にする印象もあります。

 大事なのは理解だと思います。距離感を保てるなら感情をコントロールするには有用ですが、依存的になるには危険な装置だと思います。

 循環の問題

 次は循環の全体をみて考えてみましょう。 繰り返しの話も多いですが、部分ではなく全体を見たときの話で書いています。

くりかえしが気分を作る。

 感情も繰り返して形成されるものもありますが、気分は単一刺激で発生することはなく、刺激が持続したりすることで形成されます。身体刺激によって気分がさがることは当然ありますが、明かりのようについたり消えたりするわけでなく温度のように徐々に上がったっり下がったりすことがほとんどです。一目ぼれをして、テンションが上がったとしても、一度きりのすれ違いレベルだと気分は落ち着いていくはずです。気分のコントロールが苦手な人は、ここが理解できておらず単一刺激で気分が上がるのを求めることが多いです。また、疲労を抜かずに行動だけをしても繰り返しが起きないので意味がありません。

 入院でうつが改善したりしますが、これも一日でよくなるわけではないです。バランスが取れた食事、規則正しい生活、たっぷりの休養、人と話すこと、適度な運動の繰り返しがうつを改善していきます。元気になり退院したいといって退院後、しばらくしてまた同じ状態になります。口々に「もう大丈夫だと思う」といって退院し具合が悪くなった後、理由を聞くと単一の理由をあげることが多いです。しかも、本当に基本的なことはなおざりにしていたりしています。

 一日だけ、きちんとした生活ができればいいというわけでなく、繰り返しが作っていきます。

 もちろん私も意地悪をしているわけでなく、入院してなぜ改善したか、生活の基本が以下に大事かを伝え、自己分析を促し入院ももう少し伸ばす選択もできると伝えます。

 幾人かは理解し、幾人かは同じことを繰り返します。

 繰り返すかたに共通するのはとらわれです。「仕事をきちんとしないといけない」「自分はだめだ」「自分はもっとやれる」「ここにいてもしょうがない」

 逆の言い方を気分=自分をみななおざりにしています。仕事よりも大事なものはなにかと聞いても「仕事しないと生きていけない」と答えます。生きることと仕事は順番はどっちが先か聞きます。生きるために仕事をしているのか?仕事をするために生きているのか?と聞きます。「でも先生、お金がないと生きていけないじゃないですか」

 気分の問題がおきてそれで身動きが取れなくなっている。寒いから服を着ないといけないという話が「畑に行かなければ食べられない」と別のものに置き換えているようにもみえます。そして寒い畑で薄着のままいってしまう。

 うつ病のかたに、自分の体を喜ばすことを一つするという宿題をよく出します。(読者の人でどれだけできるでしょうか?)

 これができない方も多い。でも、気分のコントロールはまさしくこの部分が肝心要の部分でアウトプットを通じて自分をコントロールするということなのですが、できないし、悪化しているひとではやろうとしないし、やれないとはっきりいわれる。でも、”すべきことはする”というべき志向の行動はする。

 なぜか?

 これは気分が繰り返しの刺激で変化する温度や体温のようなものだからです。だから簡単には気づけないのです。だからなおざりにする。だからそこを指摘しても理解できない。人は寒いと感じるから服を着る。でもその感覚がないのなら(認知症であります)体に異常が起きたときにのみ人に相談する。温度計をみて服を着なさいといっても、温度計がなかったり、ほかに優先すべきことがあるといって言うとおりにしない。そしてまた同じことを繰り返します。

 これは学習や人の話に耳を傾けることによってしか改善できない問題です。 

感情に振り回される地獄、感情がない地獄

 多くの状況下で感情は神聖視されています。人間性の印であり、詩歌の源であります。歌のほとんどは何かしらの感情がテーマで様々な感情を想起させます。 その逆で感情がなければ、人間味がなかったり、ロボットみたいだと陰口をたたかれます。ただこれは正確にいうと共感反応で他社に対する感情に適切に反応できなければ”気持ち悪い”と思われてしまうのです。ところがこの感情をきちんとコントロールしなければ、子供っぽいと思われますし、感情に振り回されているような印象があります。

 ただ感情と気分の問題はそれ自体は実害はなくその結果とる行動が問題であるので結果的には行動統制がとれていれば問題はありません。一歩引いて俯瞰してみれば、人は感情を環境に対して適切な量出力するように求められているようにもみえます。

 これはある意味不自由に思えます。雪原でありのままの私♪と歌いたくなる気がするのもわかります。

 極端な話を言えば、感情がすくなくても、感情が豊富過ぎても人は生きていけます。工夫次第で誰にも迷惑をかけず、豊かな人生を送れるでしょう。でも、社会にとってみればそれはマイノリティにあたり、どう扱っていいかわからない人々になります。マイノリティであるということはロールモデルがなく、知識の蓄積もおこらないので生きていくのがさらに困難になります。

 結論としては感情が少ないかたも豊富な方も生きていくのには困難を抱えてしまっているのです。

ままならない自分や他者をうけいれられるか

 そもそも感情自体はDNAレベルに刻まれたものであるので、コントロールするのに時間もかかるし、人間らしさの源である前頭葉の機能がある程度なければ、メタ認知(客観視)もコントロールも難しいし、できるためにはそれを学習できる環境と時間が必要になります。

 そして結局はある程度は、”ままならない自分”=”動物っぽい自分”を受け入れる必要があります。これは”ままならない他者”=”動物っぽい他者”でもあります。

 ところが被虐待児や、幼少期学童期にいじめをふくむ何らかのトラウマを抱えていたり、極端な幼少期を抱えていたり、被害的な幻覚や妄想を抱えた人間にとっては、これがすごく難しくなります。 ままならないもの=不安の対象になるので環境調整が必要ですし、そして感情的な人とを受け入れられないということはめぐりめぐって自己否定に至ります。

 うつ病の方も同様で否定的な感情により自分を受け入れられません。その結果、周りも受け入れられずぐるぐると否定的な気持ちが循環し続けます。治療において落ち込んでいる自分を受け入れられるかそれとも許せないかはよく分水嶺となります。自分は落ち込んでいいと、動けない自分は仕方ないと認められた時、ふっと症状が軽くなる瞬間があります。そしてその結果、他社理解がすすみ寛容な人格に再形成されていきます。

自家中毒のような感情

 感情は環境に対する反応であるから、環境に対してリアクションし環境を変えなければ感情は出続けます。

  • 環境からの刺激
  • 感情が出現
  • 環境にたいしてアクションを起こす
  • 環境が変化
  • 感情の消失

野良猫だと

  • なわばりに他の猫がくる
  • 警戒心と怒り
  • 威嚇
  • よその猫が逃げる
  • 怒りの消失

 となります。

ところが人間がおかれた環境はより複雑のなので感情の消失のための、行動を取り辛いこともあります。

  • 人にマウンティング目的で嫌なことを言われた。
  • 不快な気持ちや怒りが出る
  • 言い返せない
  • 悶々と感情を蓄える。
  • 相手の顔を見る度に同じ感情が湧く。

 

  • 人に嫌なことを言われる
  • 不快な気持ちが出る
  • 激しく言い返す。
  • 相手も激しく言い返す
  • さらに嫌な気持ちになる
  • 繰り返す

 このような感じで感情に対して選択した行動によっては、感情は増幅していきます。

 まるでかゆいとこころをかきすぎてまたかいてしまうようにか悪化していきます。これは学習や試行錯誤の結果解消方法を見出せば全く問題がないのですが、さまざまな要因で解決が難しい場合感情の処理に問題を抱える結果になります。

正しい感情があるのか? 間違った感情があるのか?

 こうやって俯瞰していくと本当に感情に振り回されているなと感じる方がほとんどではないかと思います。

さて、正しい感情があると思いますか? 人は感情というものを神聖視している節があります。特にドラマやフィクションにおいてです。感情を完全にコントロールすることは人間性を失うことになるでしょうか?

 循環理論で考えるとこれはあくまで環境の刺激に反応した結果です。

 人との会話やあいさつに正解はあるでしょうか?ないはずです。目的があれば選択した会話をすることになると思います。しかし、逆の感情であっても尊重されるべきです。その人の反応や感じたこと自体は、自然な流れなので否定すべきではないですし、感情の否定はなんの解決にもなりません。

 この過度な尊重も否定もないという態度は循環を通してみるとよくわかります。結局は刺激をうけてどうアウトプットするかが重要であり、環境からリターンをうけて感情が変化するかが大事であり、今、ここである感情はそのままでいいのです。それが自分をコントロールする律するということであり、本質的にはアウトプットをコントロールできればいいわけであるので、感情自体を抑えたりなくそうとしたり、過度に大事にする必要はないのです。

理解はあっても、正解はない。

 カオスティックな世界では正解はありません。パターンと結果、事象自体は存在しますが、植物や山の形に正解がないように基本的には予測はつきません。であるなら沸き起こる感情も正解はなくそれに伴う行動も正解はありません。

 限界はありますが、それらの関係性を理解することは可能です。

 そしてそれらの力をもらって一定の方向に進むということは可能です。すごく微妙な言い方なのですが、正解はないが正しさはあります。それは自然の事象をありのままみれるかという目線です。正解の行動はなくとも、正しく理解するというのはあり得ます。

 大事なことなので何度でもいいますが、まずは正しく理解することが非常に重要です。

 自分がなにに振り回されているのか、どんな落とし穴にはまっているのかを理解すればおのずととるべき行動は見えてきます。

 冷静に考えると当たり前なのですが、本質的には苦しみの多くは理解できないことから来ています。事象によって苦しんでいるのではなく、事象を理解できないから苦しんでいるのです。

 うつ病も、躁病も、依存症も正しく見ることができた瞬間、まるで牢獄から解放されるような気分になるはずです。

 繰り返しになるのですが、道にまよったらまずはよく見ることです。人に聞き、教えを請い、観察をし自分がいる場所が分かれば自ずと進むべきみちが分かるはずです。

まとめ

 気分と感情の循環的な視点を要素にわけて考えていきました。気分と感情を構成するパーツについて論じています。抽象的な話が多いのですが、個別性が強い部分ではありますし、”うつ病”は治療も含めて考えるので別の項目を設けます。

 気分と感情に振り回されている方の助けに少しでもなればと思っています。

 基本的に私はこんな考えで治療をしているということなのでそのあたりを理解していただければと思います。難しい事をいっていているようにも聞こえますが専門的な知識以前の話が殆どです。

 治療では個別性が大事になるので、そのあたりは外来でお話できればと思います。

  • この記事を書いた人

モジャクマシャギー

 アラフォーの精神科勤務医です。自分の外来や診療が円滑になり、利用者さんの治療がスムーズになることを目標にブログを書き始めました。   ですが、いろんな方にもみてもらってやくにたてたら嬉しいです。  病棟業務を中心に児童から認知症、最近はインターネットゲーム依存まで幅広くみています

-01 心の循環理論, 03 疾病理論