人の心を知る 03 疾病理論

不幸は癖になるのか?現実逃避としての不幸

 ここでいう不幸の定義とは“ネガティブな事象”です。大多数の人が嫌がるようなことですね。

 現実逃避の定義がやや難しいのですがなんとなく理解してもらえればいいです。

認知不協和と現実逃避

 人は常に現実逃避を必要としてます。ここでいう現実逃避とは単なる娯楽という意味でなくカオスと死と不条理や虚無など忘れるためにあるあらゆることです。ホモサピエンスが知性を獲得してから我々は常に認知不協和に晒され続けています。人間の脳は限界がありありのままの世界を認識することは難しいからです。

 ここでいう認知不協和とは、自分がこう思っている事と、実際の外の世界の反応や状態が違うことです。

 死や不条理は我々のことを不安にさせます。虚無は生きる意味そのものを無くしてしまいます。

もしこの世の中から全ての娯楽が無かったとしましょう。伝統的な社会では娯楽は少ないですがそれでも”祭り“を必要としていました。そう言ったものがなければ人は淡々と毎日の生活に溺れるように生きる実感も湧かず死と生の区別がつかなくなり知性は働きを鈍化させます。

人は生きる意味がわからないと迷うものです。ところが生きる意味なんて世の中には落ちてないから自分で作るしかない。世の中はカオスから生まれたフラクタルに満ち、その中で常に人は選択を迫られます。パターンはあっても正解があるわけではないです。 そう言った現実は常に我々を不安にさせます。この生存の本質的不安、前頭葉の機能的矛盾が必要とするのが娯楽を中心とした現実逃避です。

マズローの生理的欲求も見方を変えれば、ああいった自己実現がなければ我々は生きることに関して不安で仕方ないのです。

悪役としてのカオス、不条理、虚無

カオス、不条理、虚無は、物語の悪役のように―サウロンや、名前を言えないあの人のように我々を不安にさせ、心の平穏を揺るがします。しかしそれは世界の根本なのです。我々の全てをルールのない野良猫にかえす圧倒的な現実から逃れるために人は常に現実逃避を必要としています。

 多くの人々は、カオスと死と不条理から遠い場所で生まれて、そのことに気がつかないまま一生を終えます。人類が脈々と受け継ぐミーム(模倣子)の上で生きてその下にみたくないものがあるということなど気がつきもしません。法律、道徳、信念、友愛、文化は我々を守る地面なのです。

カオス 未来は予想がつかず現在の状況はたまたまで不幸も幸運の違いはごく些細な違いから生まれていること。

 死:みなさんご存知のやつです。圧倒的な終わりですね。有機物質だけでなく全ての形あるものに存在するものです。100年も経てば殆どの風景はかわってしまいます。

 不条理:どちらかと言うと西欧的な一神教的感覚です。仏教的には不条理は当たり前で 諸行無常、一切空と言う言葉で表されてきました。一神教は神に愛されて生まれて信仰の中で天国に召されるという考え方なので神によって秩序はもたらされ、不条理は神の試練か悪魔の囁きかとして表されてきました。日本では相次ぐ内乱を経て、世界では二度の世界大戦を経て洗練された言葉です。

 努力は報われる。愛は勝つなどとは対極にある感覚です。友情、努力、勝利? みたいな感じです。

 この三つは本当にどうしようもないです。根っこはこの三つを核として圧倒的な現実と向き合うか、それともいなすかを選択せねばなりません。そのために必要なのが現実逃避です。

ハレとケ

 現実逃避はさまざまなものがあります。スポーツ、芸術、趣味、恋愛や情愛などです。先進国では飢えることがほぼなくなり食事を得て生きる喜びを感じることは少なくなり、繁殖もそのものの喜びだけでなく、子供を社会に適応させるコストが高くなりいてくれるだけで嬉しいと言う感覚は無くなってきているように感じます。

 本来なら生物の本質は二つしかなく生存と繁殖の喜びがあれば、三つの現実から逃れることが十分なはずですが、それらを簡単にし複雑にした結果、我々はさらに現実逃避を必要とする様になってしまったようにも思えます。

言い方を変えると「生きると死ぬ、子供のこと以外は全て死ぬまでの暇潰し」なのです。

生死子供で頭がいっぱいの間は人は現実逃避や娯楽を必要としません。ところがそれが実現したり簡単になった瞬間の人はとたんに娯楽を必要 としています。

  民俗学者の柳田国男は伝統的な日本人の生活にハレ(非日常)とケ(日常)があると指摘しました。しかし、現代社会ではどうでしょう?淡々とした日常に節目に訪れる祭や冠婚葬祭みたいなスタイルはなくなってきており、それぞれが旅行や飲み会やイベントなど娯楽を享受しています。ケを生きるためにハレがあったはずが、ハレのためにケを生きている。好きなアイドルのコンサートに行くために、嫌な仕事を頑張るという趣味のために生きるといったひとが多いのではないでしょうか?

 生きるのが簡単になった結果、生きる喜びが少なくなってしまうのはなんか矛盾をつよく感じます。

痛みで痛みを忘れる

 じゃあなぜ不幸がこの現実逃避だというのでしょう。これは実際にそのような状態に陥った人ならわかるかもしれません。もちろん娯楽と症状は違います。苦しいものと楽しいものが同じはずではありません。

 精神疾患の多くは様々な要因が重なった結果悪循環を起こし症状として出たものです。

 例えば勉強が嫌いで先生や友人ともうまくいかず、いじめなどもありその結果お腹が痛くなったとします。この場合、学校に適応できないと言う本質的な部分をどうかしないとなんの解決にもなりません。ところが利用者さんの多くは“お腹の痛みをどうにかすること”に固執し始めます。

お腹の痛みがあるから学校にいけないというということになると本人は問題の本質を考えなくて済みます。するとこれは現実逃避の一つとなり症状の固定化の一因となります。

これがタイトルである不幸は癖になると言うことになります。

 

これをアルコール依存に当てはめてみましょう。

 自分の意見を全く言えない人がいるとします。徐々に不適応は積み重なって行き小さな悪循環が生まれます。アルコールを飲んだ時だけはそのことを忘れ、思ったことを言えたりできます。アルコールは依存物質であるので長年飲み続ければ依存症が完成します。

 この時本人も援助者もお酒が問題だと思いがちです。そもそも本人の根っこの問題は毎日飲んでいたり体が悪い検討能力も下がり外側からももわかりづらくみえてきません。

 これはうつ病や不安障害のかたもよく同じ状態になります。口癖のように「症状さえ治れば」といいますが、その根っこの方は圧倒的な現実に対して抗う術がないということに起因していることがほとんどで、俯瞰してみれば趣味に夢中になるように症状に夢中になっているようにみえます。

 問題はその現実逃避が前者は、虚無的な現実に抗う成長と能力を与えてくれることがあることもあるのと悪循環がなく破綻することが少ないのに比べ、精神疾患で現実逃避すると、成長もなく破綻することもありうるということになります。

メロドラマみたいなアップダウンの激しい人間関係の中にいれば現実のことは多くの人は忘れるでしょう。喧嘩したり別れたり付き合ったり浮気したり仲直りしたりを繰り返せばそのことに頭がいっぱいになって余計なことを考えずにすみます。

 (この辺りは名作ドラマ「もう誰も愛さない」などをみるといいのではと思います。多くの不倫ドラマの中毒性はこのあたりにあるのではと思っています)

 これは夫婦関係や人間関係でも同じでパートナーの一人が病気になってくれれば、病気でない方もその状態で頭がいっぱいになって現実逃避ができます。また、援助者にとっては能力をあげる機会でもあるのである意味好循環を起こす場合もあります。

同じように「ダメ男が好き」「付き合う人はみなダメンズ」みたいなことをいう女性も一緒でこれも現実逃避に近い部分があるのではと推測してます。振り回されていれば、現実はみなくていいわけですから。

 このように精神疾患というのは見方を変えるとメリットもあります。

解決するには

 解決方法はこのカラクリを知るということが第一歩です。また多くの人が現実逃避を必要としていてあなただけが現実逃避を必要としているわけではないこと。残念ながら普通の人と同じことをすればいいわけではないことを知るということです。

 カラクリを知るためには人と話すことが大事です。

 先達たちの多くはこの悪循環から逃れている方もいます。

 不幸は癖になりますけど、幸福も癖になります。

ここで不幸、幸福の違いを考えてみましょう。

不幸

メリット 簡単 持続も容易。短時間で強い現実逃避ができる。短時間なら成長の機会になる。欲しがるものがいないので奪い合いにならない。パートナーの不幸なら比較的安全。モデリング(人真似、学習)がいらない。

デメリット 最終的には破綻がある。長期的には成長の機会を奪う。

幸福

メリット 破綻がない。小さな幸福の管理ならやりやすい。モデリングが容易。短期的にも長期的にも成長の機会を得る場合が多い。

デメリット 簡単にはできない。小さな幸福の管理ならやりやすい。長時間かかる場合がある。対象次第では他者と奪い合いになる。持続が難しい。パートナーの幸福は巻き込まれが少なく現実逃避としては弱い。モデリングが必要。

 

  こうやってみるとわかると思うんですが、幸せ=快感情も結局は現実逃避としてはすごく難しくコントロールしにくいのです。そもそも毎日ハッピーという人ってそんないますか?

 いるけど、その人は死と不条理と虚無と向き合っていないか、まったく知らないことが多く、いわゆるトラウマティックな体験、心の外傷体験が少ないかない人ではないかと思うんです。季節と一緒で丁度良い日って本当にたまにしかないと思うんです。

 このへんはちょっと曖昧な書き方なので他の章もあわせて読んで頂ければと思います。

現実逃避を諦める

 もう一つの手段としては現実逃避を諦めると言うことです。

 これは簡単なようで難しいですが世界があてにならないよと。自分のコントロールは難しいよと知るだけなので基本は知るだけです。

 あとは決断がいります。あなたがこの不幸はある種の現実逃避だと認識した時、きっと決断を迫られるでしょう。

 別の現実逃避を得るために長い階段を登る決心をするか、心の平和を求めて、自分を知る旅にでるか、それともその矛盾してどうしようもない自分を受け入れ共に生きていくことを選ぶか。これらは援助者が選べることではなく本人が選ぶことしかできないことです。

 けっきょくここにしか活路はないように思います。

まとめ

  現実逃避としての不幸、精神科の症状について書いていきました。変わっていくペースは人それぞれなので、すぐに本質をみろなどとスパルタな事をいうつもりは毛頭無くてゆっくり変わっていけばいいと思ってますし、不幸がくせになっているからって別に責めるつもりも非難するつもりもないです。

 逆に、このことをわかっていない人に脳天気なアドバイスをされて傷ついた人も多いんじゃないかとおもっています。

 しかし、”楽にいきたい””自分の人生をコントロールしたい”ならこの部分は避けられません。難しい部分もあると思うので外来でまた聞いてください。

 まあ、なんにしろなんだかんだいってすべての人は不完全な生き物なので、もっと肩のちからを抜きましょう。まわりがキラキラしてみえるのは壮大な勘違いと思えば、気持ちも楽になるのではないでしょうか?

  • この記事を書いた人

モジャクマシャギー

 アラフォーの精神科勤務医です。自分の外来や診療が円滑になり、利用者さんの治療がスムーズになることを目標にブログを書き始めました。   ですが、いろんな方にもみてもらってやくにたてたら嬉しいです。  病棟業務を中心に児童から認知症、最近はインターネットゲーム依存まで幅広くみています

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