05 心にいい寓話 発達障害を知る、生きる、援助する。

ミラーニューロンと耳のないコウモリ、自閉スペクトラム

もし難聴のコウモリがいたら

 もし、難聴のコウモリがいたら、どんな生き方をしないといけないでしょうか?

 コウモリが暗闇の中を飛べるのは、超音波を使ってその反射で障害物の位置を理解しているからです。イルカが水族館のショーで狭い水槽でぶつからずにくるくるジャンプできるのも、同じ能力で、潜水艦や、最新の車のセンサーも同じことを利用してます。

 コウモリはみな目が見えていないわけでなく目をつかって飛ぶことができるオオコウモリなどもいます。コウモリは目を使って飛ぶとぶつかりやすくなるなるなどの研究結果もあります。

 イルカや鯨などは超音波を使ってその他の個体と通信します。鯨は群れることが殆ど無いのですが、繁殖期には一カ所にあつまるのに超音波をつかっているので、超音波を聞こえなかったりすると孤独になります。(52ヘルツの鯨で検索してみてください)

 耳が聞こえなかったり、弱かったりするときっと死ぬことはないにしろ苦労することでしょう。

センサーとしてのミラーニューロン

 人はどのように他人の気持ちや心を理解しているのでしょうか? 私はこのエコーロケーションのような仕組みだと思っています。

 挨拶や雑談を通じて、言葉や情報を投げかけ、その反応を感じ取り、そのパターンを通じて相手の人となりを理解しているのだと思います。ここで耳にあたるのが、脳にあるミラーニューロン(仮説)です。

 ミラーニューロンというのは相手の感情の受信機みたいなものです。

 例えば、転んで擦り傷ができた時に痛みを感じる神経が活発になります。これは当然ですね。しかし、多くの人は人が転んで痛そうにしているときも、その痛みをなんとなく想像できます。これは刺激によってミラーニューロンが活発になってそう脳がシュミレーションしている。この”共感”の能力の元になっている脳のモジュール”ミラーニューロン”があるのではという仮説です。

 では、このミラーニューロンの働きが弱いとどうなるのでしょうか?想像してみましょう。

 共感能力がないと、葬式で笑えるようになります。人が気にしていることを平気で言えるようになったり、人が傷つくことを平気でいえるようになります。挨拶や雑談の必要性が理解できません。する意味がわからないです。小説やドラマなどみてもまったく面白くない。むしろ馬鹿にしてしまう。

 とはいってもコミュニケーションがうまくとれないといけないのでどんな風にコミュニケーションをするのかというと、簡単なパターンをみながら、カテゴリー分け、手順をきっちりするなどロジカルに考えざるを得ません。集団のなかでの立ち振る舞いや、表情のパターン言動から推察するという作業になります。

 手計算と電卓での計算ぐらいの違いでどうしてもタイムラグがでてくると思います。

 このミラニューロン仮説で考えると自閉スペクトラムの人々の振るまいをよく説明できるなと思います。

自閉症スペクトラムに障害の概念を説明することの難しさ

 発達障害は幅広い概念があり、治療に関しては個別性がかなり高いと思っています。そもそも治療という概念はふさわしくないとも言えます。壊れているわけではなく、モジュールのバランスがおかしい車みたいなものですから。はしご車が普段使いできないからといって壊れているわけではないし、F1カーで公道を走り電柱にぶつかり事故ったからといって壊れているわけではないので。耳が聞こえないコウモリは障害といわれているのでしょうか?

 壊れているわけではないが現実にある不適応の問題をどうにかしないといけないということが本筋なのでここを誤解する人も多いです。まあ、誰にとっても障害者と言われるのはいやですよね。小中高とマウンティングの洗礼を受けてきたものにとっては特にそうでしょう。障害者という言葉で馬鹿にする子供も子供っぽい大人も現実にはいるわけですし。

 自閉傾向があるかた、コミュニケーションの問題とこだわりがある人に対して、その概念を説明するのは難しいです。ネットの記事や、本を紹介し、それを読まれたあとで、でも私は違うと思うんですとかえってくる事が多々あります。

 偏食傾向が強い人にそれを指摘すると「食べられないわけでない」、「あえて食べないだけだ」つまり「偏食ではない」と言われるようなものです。こちら側からはへりくつにみえますが、向こうは真剣です。 極端な話をいえば「いつでもダイエットできるから太っているわけではない」みたいな。コミュニケーションはできるし問題はないけど、あえてやらないだけだだという理屈です。

 なんでやねんとつっこめる人にはつっこんでいくのですが、指摘するとしつこいと怒る人もいるのでまあやっかいな部分です。

 これは障害者だと決めつけたいわけではなく、ここでの診断名はその奥にあるいわゆる上手く生きて行くためのライフハック、tipsなどのいきづらい人のための情報の集積を知ってもらうための入口の鍵みたいなものですが、それを受け取ってくれると安心ですが、受け取りもしない場合も多々あります。

 とくに多くの場合、本人は困ってないけど、周りが困っているということが殆どで例えば不登校でも「まわりがばかなだけ」と自分が集団にあわせられないことを、「あえて合わせない」「周りが自分に合わせられない」と認識している場合があります。

 学校に行かないことが周りは問題だと思っていますが、本人目線だと”好きで学校にいかない自分をみとめなない馬鹿な周りの問題”となっていることが多いです。

 中核症状で本質的な議論としてはこの自閉傾向という概念は正しいのですが、届く言葉として難しい場合が多いです。自閉症の概念を伝えても、先ほどの好き嫌いの例えと同じで「自分はできないんじゃない、やらないんだ」と思い、微細な違いで概念をうけとらず、結果その概念の裏にある「生き方」「how to」「アドバイス」などに興味をもちません。愚者は経験から学び、賢者は歴史史から学ぶとはドイツの宰相ビスマルクの言葉ですが、この情報化社会のなかでは、発達障害に関する情報は玉石混合だとはいえ簡単にアクセスできて、似たように悩む人達のアドバイスが本当に簡単に手に入るにもかかわらず、そこに手を伸ばせない。人のアドバイスも他人事であることが多い。

 じゃあ、どうするかという話になりますと。多くの適応のいいASDの人達は有用なマイルールがありそのマイルールによって社会適応を成し遂げています。マクドナルドやセブンイレブンがしっかりとしたマニュアルがありそれに従って無数に店舗を増やしているように、立派なマニュアルを心に作ります。そのマイルールのブラシュアップにひたすら付き合っていくという姿勢が大事になります。そこから逆算して経験する場を与える、引きこもりにさせない、動機維持のためにハードルを下げる、課題を具体的なものにして、数を少なくするなどの工夫が重要になります。 この辺は別に書いていこうと思います。

自閉の気持ちを想像する

 私は自閉傾向のある人の気持ちを想像するとき二つの例えを思い浮かべます。一つは耳の聞こえないコウモリ、一つは目が双眼鏡の人。後者はまたどっかで話しましょう。

 後天的か先天的か5感の過敏さがあることがあるのですが、まるで視覚過敏のコウモリのように思えます。代替的に他の感覚がするどくなるのは利にかなっています。

 超音波をもちいたエコーロケーションは視覚情報とちがって、ぶつからないことだけを目的にするのなら視覚情報よりもイメージ像の画角が広く情報処理自体も単純なのでスピードを出せるのも理解できます。

 また、明るい所に住み昼に餌を食べればばいいだけなので耳が聞こえないコウモリもいきていけないわけでないのも想像に堅くありません。

 耳のきこえないコウモリの気持ちになってみると、暗い洞窟の中を飛び回るのに独特の手順がきっと必要になるでしょう。それがこだわりみたいなものかなと想像しています。

 同じようにみんなと飛べないために集団行動も興味がなかったり一緒にとぶのもきっと難しいのではないでしょうか

 この例えは、当事者である本人には自分のことをはなされているとおもわれないですけど(たとえ話を理解するのが苦手なので)、援助者には伝わることが多いです。また、たとえ話をワンクッション置くだけで、否定的な気持ちがすこしきえるので、メタ認知の深化には役に立っている印象です。

耳の聞こえないコウモリとして生きる。

 障害とよばれるもの援助や方針をザックリわけると三つで

1)長所を伸ばす。

2)短所を減らす。

3)ありのままをうけいれていく。

 となります。 この三つの選び方には「なにがかわってなにがかわらないか」の見極めが必要になります。これは言い方を変えると「DNAレベルの問題と後天的な問題の境目」「伸びしろがどこまであるか」という問題になります。

 それによって援助者視点ではどこに関わりのフォーカスをあてるかは大事な問題です。

 当事者としては、自分の問題の本質はどこにあるのかの理解。問題とは絶対的なものではなく相対的な問題であるという理解。(本人にとってはこの相対的問題の理解が難しいのです)が必要になってきます。そうしないと海をうめようとスコップで延々と砂をいれるような努力をするはめになります。

 この部分は、別にまた稿をもうけるとします。

 治療としては基本的には当事者の希望にあわせて変わる努力を強いるのが現状です。ただ社会的には、アンバランスな人を石もて追うのではなく、居場所を用意したり、優しく対応できるような社会であればなと思います。生存と繁殖が簡単になったとしたら生物としてはかなり成功した種なので、群体としての成熟は平和を求める方向にシフトできればなと思うのですが、ニュースなどをみると競争や戦争は人間の本質のようにも思えてさみしい気持ちになります。

 ここでいう優しさとは障害があれば左うちわで生活出来るようにするという意味ではありません。なにもかもかわりにやってしまうということは、生きる喜びと実感を取り上げる危険な行為です。

 耳の聞こえないコウモリの生き様を想像するとき、きっと苦労し、苦悩し、様々な努力ををしているのだと想像に難くありません。その苦労、苦悩、努力に報える社会であればいいなと。お前ぶつかって危ないからこの洞窟からでていけよといわれないような社会になればと思わずにはいられません。

まとめ

 外来でよくたとえる耳の聞こえないコウモリの話をふかく掘り下げていきました。次は双眼鏡の目の人の例えについてほりさげていければと思います。

  • この記事を書いた人

モジャクマシャギー

 アラフォーの精神科勤務医です。自分の外来や診療が円滑になり、利用者さんの治療がスムーズになることを目標にブログを書き始めました。   ですが、いろんな方にもみてもらってやくにたてたら嬉しいです。  病棟業務を中心に児童から認知症、最近はインターネットゲーム依存まで幅広くみています

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